聖書を開こう 2008年3月20日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 今は善い業に励む時(ガラテヤ6:6-10)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 クリスチャンとしての生涯は終末の完成を目指しています。その救いの完成を目指して真っ直ぐに歩むのがクリスチャンとしての歩みです。ガラテヤの信徒への手紙を書いているパウロ自身、他の手紙の中でもゴールを目指して歩みつづけることの大切さを何度も説いています。その歩みには二つの注意すべき点があるように思います。
 一つは洗礼を受けてクリスチャンとされた者の歩みは、あくまでもスタートであってゴールではないということです。ゴールで栄冠が待ち構えていることは約束されていますが、そこを目指して歩みつづけることが強く勧められているのです。
 もう一つの注意すべき点は、どう歩むべきか、その歩み方が問われているということです。ゴールで待ち構えているものが約束されているからといって、ただ漫然と歩んでもよいとは言わないのです。
 きょう取り上げる箇所には、終末を目指してどう歩むべきなのか、そのことが勧められています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 6章6節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 きょうの箇所は先週取り上げた箇所の続きです。パウロはキリストが勝ち取ってくださった自由を自分のものとして保ちつづけるために、この自由を罪の機会をしてはならないことを説いて来ました。むしろ、この自由を隣人を愛する機会とし、律法をまっとうする歩みを続けるように勧めてきました。その歩みは肉によってではなく、聖霊に従って歩むことによって完成されるものです。それはまた弱さをもつ者として、互いに他を受け入れ、支えあう歩みです。
 そのような一連の勧めの続きとして、先ほどお読みした言葉が綴られています。

 さて、6節の言葉…「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」という勧めの言葉は二つの点で少し唐突に感じます。一つは今までの一連の勧めには「教えてくれる人」と「教えてもらう人」についてまったく触れられていなかったからです。
 もっとも、その三つ手前の節で「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら」と言っているところから想像すると、教えられる人が教えてくれる人に対して十分な敬意を払っていない現状がその背景にあるのかもしれません。
 もう一つ唐突に感じるのは、「持ち物を分かち合いなさい」と勧めている点です。六章二節で「互いに重荷を担いなさい」とは言われていますが、持ち物を分かち合うということとは同じとは考えられません。はやり唐突な印象を受けます。
 もっとも、これも、「すべての持ち物」と訳されている言葉は、「あらゆるよきもの」とも訳すことができますから、もしそうだとすると、実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う者たちが、教えてくれるその人とあらゆるよいものを共有して成長するようにという勧めとも取れなくはありません。
 そういう意味では1節から6節までが一まとまりの勧めかもしれません。
 さて、7節以下は善き行いの勧めです。しかも、パウロは「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」と述べて、あたかも救いが行いによるかのように記しています。そうすると、救いは行いによるのではなく信仰によるのであると、この手紙の中で何度も繰り返し述べてきたことが一気に覆されてしまったような印象を受けるかもしれません。
 しかし、パウロがここで言っていることは、「最後の審判に備えてよい行いをしましょう」という勧めではないのです。確かにすべての人は、クリスチャンであれそうでない人であれ、自分が地上で行なったことについて最後の審判のときに申し開きをしなければならないというのは事実でしょう。しかし、十字架の上で罪の贖いとなって下さったキリストを救い主と信じる者たちには、もはは罪の責任を問われることはないのです。神はキリストを通してわたしたちを扱ってくださるからです。そういう意味でクリスチャンはわたしたちを裁く律法から解放され自由を与えられているものです。
 繰り返しになりますが、その自由を罪を犯す機会とはしないで、隣人を愛するために用いるのがクリスチャンの生き方です。そのことをパウロは今まで述べてきたのでした。そのために肉の法則ではなく聖霊に従って生きることの大切さをパウロは述べてきたわけですから、ここでもそれと同じ文脈の中でパウロの勧めを理解しなければなりません。
 「たゆまず善を行いましょう」とは、最後の審判を逃れるためではなく、むしろキリストを信じる者にはキリストにあって裁きを受けないことが保証されているのですから、その恵みに応えて、聖霊に謙虚に従いつつ歩むことが求められているのです。聖霊の実が豊かに実ることを妨げないように、従順に歩みつづけるのです。神から救いの恵みを勝ち取るためではなく、むしろ既に与えられている恵みを無駄にしないためにです。
 パウロは9節と10節で「時」という言葉を二度使っています。どちらも、その指している内容は異なりますが、使われている言葉は、ただ時計が刻む機械的にカチカチと流れていく「時」というのとは違います。それは神によって定められたふさわしい「時」なのです。農作物の刈り取りによって象徴的に表される終末の「時」は、それこそ神だけがご存じの「時」です。いつその時が到来するのか、人間にはわかりません。だからこそ倦まずたゆまず善を行いましょう、とパウロは勧めているのです。
 万物が向かう先も神が定められた特別な時ですが、そこへ向かう今のこの時もまた神が定めておられる時別な時なのです。この今の時に、「時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」とパウロは勧めます。信仰によってこそ救われるとする福音の教えは、こうして聖霊の導くままにますます信じる者たちを善き行いに勤しむようにと導いていくのです。

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