聖書を開こう 2008年8月14日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 主を信じる幸い(ルカ1:39-56)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 現代社会は気が短いと感じることがあります。信号が変わったのをうっかり見過ごすと、間髪いれずにクラクションを鳴らされることがあります。携帯のメールの返事が遅れると、何かあったのかと心配されることがあります。
 それに対して聖書の世界はつくずく気が長いと思います。神の約束が成就するまで何世代にもわたって待たされることがあります。長い間待つうちにこちらの信仰が試されることさえあります。しかし、主はもっともふさわしいとお定めになったときに、必ず約束を成就してくださいます。救い主イエス・キリストの誕生もまさに神がお定めになったもっともふさわしいときの出来事です。その出来事を信仰によって受けとめ、自分たちを通して神の約束が実現されることを心から喜ぶ二人の女性について、きょうは取り上げたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 1章39節〜56節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 先週はマリアに男の子が生まれるという天使のみ告げについて学びました。その男の子こそ、いと高き神の子としてお生まれになるイエス・キリストご自身だったのです。
 さて、きょうの箇所ではこのみ告げを受けたマリアが親戚のエリサベトを訪問する記事です。マリアとエリサベトは共に天使のみ告げによってそれぞれ男の子を身ごもっています。エリサベトは救い主イエスの先駆者となるヨハネを、マリアは約束された救い主をそれぞれ胎内に宿しています。
 共にやがて母親となるという点で共通しています。しかも、共に神の約束によって子供を宿している点でも共通しています。さらに、この二人は神の御業の中でも世界の救いに最もかかわりのある男の子を宿しているという点で共通しています。
 しかし、反対に異なっている点もたくさんあります。エリサベトはマリアに比べてずっと年老いていました。子どもを宿すという望みさえほとんどなかった人でした。マリアはというと反対にまだやっと大人の仲間入りをしたばかりの小娘でした。エリサベトに比べれば、これから人生で学ばなければならないことが山ほどありました。
 また、エリサベトが結婚して何年も経っているのに対して、マリアはというとまだ婚約期間中で実際には結婚すらしていない状態でした。さらに、先週も取り上げた通り、マリアは「聖霊によって」男の子を身ごもったという点で、エリサベトとはまったく違っていたのです。
 しかし、こうした相違点や共通点がある中で、もっともこの二人に共通しているのは神の言葉と約束を信じて止まない信仰の姿勢です。そして、ただ神の言葉と約束を信じたというばかりではなく、その約束が実現することが幸いであると思う点で二人は共通していたのです。

 エリサベトはマリアにこう言っています。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)

 これはマリアに対する言葉ですが、同時にエリサベト自身の信仰でもあるのです。エリサベト自身が主がおっしゃったことは必ず実現すると信じて止まないからこそ、その幸いを心から言い表すことができたのです。

 さて、きょう取り上げた箇所の後半部分はマリアの賛歌として知られている箇所です。キリスト教音楽ではいろいろな作曲家がこの歌に曲をつけました。ラテン語の歌詞の出だしの部分が「マニフィカート」という言葉で始まっているので、「マニフィカート」といえばマリアの賛歌を指すというほどに有名になりました。
 マリアはエリサベトの言葉を受けて一気に賛美の歌声を上げます。
 この歌はマリアに対する主の恵みと慈しみとを感謝し、喜びに満ちて主を賛美する歌です。しかし、ただマリア個人の視点から神を賛美する歌に留まるのではありません。この歌は、神の民に約束を果たしてくださる主を賛美する、信仰共同体の歌でもあるのです。自分に恵みを注いでくださった神は、同じ信仰を抱く主を畏れる者にも恵みと憐みを注いでくださると確信しているのです。それはアブラハムに約束された同じ約束を共有しているからです。

 この歌の結びの言葉はこうです。

 「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 この結びの言葉こそ、エリサベトがマリアに語った言葉…「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)という言葉に通じるのです。マリアはアブラハムに約束された神の約束が必ず果たされると信じて止みません。マリアの賛歌にはその信仰が貫かれているのです。
 この約束を果たしてくださる神にすべてを委ねて歩む幸いをこそ、マリアの信仰の姿勢から学びたいと思います。

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