聖書を開こう 2008年8月28日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: ザカリヤの預言(ルカ1:67-80)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ルカによる福音書にはイエス・キリストの誕生に先立つ二つのエピソードが記されています。一つは洗礼者ヨハネの両親、ザカリア夫妻にかかわるエピソードです。もう一つはそのエピソードに割り込むような形で記されているイエスの母マリアに関わるエピソードです。
 そして、それぞれのエピソードは詩の言葉で結ばれているのが特徴です。母マリアのエピソードは既に学んだとおりマリアの歌「マニフィカート」で結ばれています。
 きょうの箇所はザカリアの預言の言葉です。こちらもラテン語の出だしの言葉から「ベネディクトゥス・ドミヌス・デウス」としてよく知られている歌です。またの名をザカリアのカンティクムとも呼ばれる有名な箇所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 1章67節〜80節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 きょう取り上げたこの詩は、洗礼者ヨハネが生まれて八日目に割礼を受け、その名を「ヨハネ」と名づけられたときに、父ゼカリアが聖霊に感じて残した預言の言葉です。
 預言の言葉は大きく二つに分かれ、68節から75節までは神の契約に基づく救いの成就のゆえに神を賛美する内容です。後半の76節から79節は生まれた洗礼者ヨハネに関わる預言で、成就したといわれる救いの約束と洗礼者ヨハネとの関係を描いています。

 まず前半部分は一見して民族色の強い内容という印象を受けます。まさにダビデ王朝の復興を願ってきたイエスラエル民族の歌そのものといってもよいくらいです。
 冒頭で捧げられる神に対する賛美は、ユダヤ民族の解放とダビデ王朝の復興にたいする感謝の歌です。しかも、その歴史を神とイスラエル民族の間で交わされた契約の成就という観点から観ている点で、旧約聖書の歴史観を貫くものを共有しています。

 確かに前半の数行を読む限り、ユダヤ民族の特有の歌であるような印象を受けます。特にローマ帝国の支配下に置かれていた当時のユダヤ民族の状況とあわせて読むときに、その印象はいっそう強まります。
 ダビデ王のような強力な指導者が出現し、ローマ帝国の異邦人支配からユダヤ民族を解放し、まことの神に仕える自由を約束どおり手にする、そんな救いが今まさに成就しようとしているかのようです。

 しかし、後半を読むと、その救いとは「罪の赦しによる救い」だと記されます。洗礼者ヨハネは救い主メシアに先立って、この「罪の赦しによる救い」を知らせる務めを授かっているのです。
 もし、この77節に言われる「罪の赦しによる救い」という言葉をもとに前半を理解しなおすとすれば、この歌全体は決して一民族の解放の歌にとどまるものではないのです。
 なるほど前半では「民の解放」や「敵の手からの救い」について述べられています。しかし、何からの解放なのか、敵とは誰なのかということは具体的には述べられていないのです。当時のユダヤ民族の人ならば、当然、敵とはローマ帝国のことであり、異邦人からの祖国解放こそが救いであると思っていたことでしょう。
 しかし、ザカリアは「罪」こそがわたしたちの本当の敵であり、「罪の赦し」こそがわたしたちを解放するものであるというのです。
 そのような理解で前半を読み直すとすれば、これはもはや一民族の政治的な解放の喜びを歌った歌ではなくなります。そうではなく、罪という敵から解放され、神の約束通り、主である神に仕える自由を手に入れたことを喜び歌う歌です。

 もちろん、この時点では救い主イエス・キリストは誕生していませんから、ザカリアの歌は時代を先取りした預言の言葉です。やがて生まれてくる救い主イエス・キリストの先駆者として生まれた洗礼者ヨハネの誕生の中に、ザカリアは神の約束の成就を前もって確信したのです。

 救いの結果もたらされるものについて、ザカリアはこう預言します。

 「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」(1:73-75)

 主なる神がわたしたちを敵である罪から解放してくださったのは、生涯にわたって恐れることなく主なる神に仕える自由と特権とを回復するためなのです。

 さて、前半に記される預言は、これから実現することを先取りして、あたかももうすべてが成就したかのような書き方をしています。もちろん、すべてが成就するのは救い主イエス・キリストの誕生の時を待たなくてはなりません。
 後半ではヨハネの働きがやがて来る救い主との関係で描かれます。

 洗礼者ヨハネは「いと高き方の預言者」と呼ばれます。その働きは第一に「主に先立って行き、その道を整え」ることです。その意味で、ヨハネは救い主自身ではありません。あくまで、救い主に先立って道を整える役目を負ったものです。
 第二に、預言者とはそもそも神からの言葉を預かって民に伝える務めの者です。預言者ヨハネが伝えるべく神から授かったものは、罪の赦しによってもたらされる救いという知識です。この知識をこそ救い主の登場に先立って民に伝えることがヨハネの務めだったのです。罪の赦しを心から願う悔いた心を一人一人に備えるためにヨハネは先立って遣わされているのです。

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