BOX190 2009年2月4日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 母体保護と第六戒の関係は? tadaさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームtadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「十戒の第六戒に、『殺してはならない』とあります。出産に際して、妊婦の母体を保護するために、胎児の命を取った場合、第六戒に反したことになりますか。」

 tadaさん、いつもたくさんのご質問ありがとうございます。比較的簡単に答えられそうな質問から順番に毎月一つずつ取り上げますので、どうか気長にお待ちください。

 さて、今回は十戒の第六戒についてのご質問です。第六戒が禁じている罪は、文字通りには殺人の罪です。しかし、ほとんどのキリスト教会では、狭い意味での殺人だけに限定しないで、人を憎む思いも含めて、この第六戒が禁じていると理解しています。また、十戒を理解する上では「何が禁じられているか」ということと同時に「何が積極的に求められているのか」ということも合わせて考えることになっています。つまり、殺してはいけない、憎んではいけないということだけが問題なのではなく、どうすれば人の命をよりよく重んじることができるのか、ということも、この戒めについて考える時に含めて考えるべきだといわれています。要するにイエス・キリストが最も大切な戒めとして「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つを挙げられたように、どの戒めについて考える時にも、どうすればよりよく愛することができるのかということが、十戒について考える基本なのです。

 話が少し脱線してしまいましたが、tadaさんのご質問に関してご一緒に考えてみたいと思います。

 tadaさんのご質問の中に「出産に際して、妊婦の母体を保護するために、胎児の命を取った場合」とあります。胎児の命を奪うことを普通は「堕胎」と呼びます。場合によっては、「妊娠中絶」と呼ぶこともあります。「堕胎」に関しては日本の刑法では第212条から216に定められています。刑法上は「胎児」は「人」とは見なされませんから、殺人罪とは区別された罪です。他方、妊娠中絶は日本では母体保護法によって一定の条件のもとで行うことは合法とされています。言わば、刑法214条が定める「業務上の堕胎罪」の例外規定といっても良いかもしれません。
 さて、十戒の第六戒を考える場合には、まず、刑法が考えているような「胎児」と「人」とを区別しません。なぜなら「胎児」も「人」も共に愛の対象であるからです。そういう意味では確かに「胎児」も「人」も第六戒によって保護されるべき対象であることは間違いありません。刑法のように胎児を殺しても殺人罪に問われないというような区別はないのです。

 では、母体保護法が規定しているような一定の条件のもとでの「妊娠中絶」は、十戒の第六戒の規定から考えて許されるのでしょうか。この問題に関しては、ほとんどのキリスト教会ではそれを認めていないと言ってよいでしょう。なぜなら胎児であっても愛の対象であることには変わりはないからです。従って一定の条件のもとでは愛さなくても良いような状況というのはほとんど考えられないからです。

 以上は第六戒の一般原則から考えたことがらですが、tadaさんのご質問の言葉に沿って、もう少し具体的に考えてみましょう。

 tadaさんは「出産に際して、妊婦の母体を保護するために」という条件をつけていますが、「出産に際して」という条件は、「分娩の最中に」と言う意味に理解してよろしいでしょうか。
 確かに分娩の最中に母体が生命の危険に晒されるということは起りうることです。その場合、出産を諦めて、母体の保護を優先させるかどうか判断を迫られることはありうることだと思います。
 しかし、場合によっては、妊娠した時点で出産はきわめて危険であり、母体を生命の危機に晒すことが予めわかっている場合もあるでしょう。
 心の負担から言えば、救急の時にした判断はやむを得ない咄嗟の判断として非難される可能性も少なく、従って心の負担も軽いかもしれません。しかし、母体の生命の危険が予め分かっているかいないかで、胎児の命を奪うことが正当化されたりされなかったりとするのは、どういう論理でそれを説明したらよいのか疑問です。
 分娩の最中に正当化される行為であれば、妊娠のどの時期にも正当化されるでしょうし、妊娠の期間中、どの時期にも正当化されないことは、出産の最中にも正当化できないのではないかと考えられます。

 もっと大切なことは、もう一つの条件にあるように思います。つまり「妊婦の母体を保護するために」と言う条件です。もっとも問題なのは、それをどれくらい厳密に考えるかということだと思います。
 母体の命には問題はないが、しかし、身体の一部の機能が失われる程のダメージがある場合も含むのか、あるいは母体が生命の危機に晒される場合だけを条件とするのか、あるいは逆に元の健康状態に戻れない程度の軽いダメージも母体保護の対象とするのか、そのあたりの条件によって結論も変わってくるように思います。
 少なくとも母体の生命が危機に晒されるような状態では、胎児の命が母体保護の結果として失われることがあっても、十戒の第六戒を破ったことにはならないと考えられます。なぜなら、律法の目指すところは「愛する」ということに要約されるのですから、愛する主体である自分自身を抹殺するような結果までを律法は必ずしも求めてはいないからです。もちろん、隣人のために命を献げることはもっとも大きな愛ですから、そのことを律法は禁じませんが、必ずしも愛のために命を献げるようにとは律法が求めているわけではありません。

 ところで、わたしは先ほど「堕胎」という言い方を避けて、「胎児の命が母体保護の結果として失われる」という言い方をしました。「堕胎」というのは胎児を殺すことが目的です。しかし、母体の保護の結果胎児が命を落とすというのは、けっして望まれる結果ではありません。ですから、敢えて言い方に区別を設けてみました。言葉のあやといわれるかもしれませんが、堕胎することが第一の目的ではなく、母体保護の結果として胎児の命が失われることは、許される場合もあるということです。

 しかしtadaさんがご質問なさっているのは、母体保護を優先させた結果、胎児が死に至る場合のことではなく、母体保護を目的として直接胎児の命を奪う場合の是非を問題としているのでしょう。
 残念ながら、このようなケースについては、わたし自身どのように積極的に論理付けることができるのかわからないままでいます。
 もし、そのまま放置しておけば、母体も胎児も共に危険に晒されることが分かっていて、しかも、胎児に直接手を下さなければ、母体は助からないというような場合、何もしないで二つの命を失われるがままに任せるということが正しいことではないことはわかります。この場合、胎児に直接手を下したとしても、法律的には緊急避難と見なされて刑法上の堕胎罪は適用されないということも分かります。しかし、十戒の第六戒が適用されないとしたら、その理由は何でしょうか、残念ながらわたしにはその答えがわかりません。けっしてそれは二人死ぬより一人でも生きた方がいいという単純な数の問題ではないでしょう。

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