BOX190 2009年4月15日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: ダビデの罪は赦されるのか? T・Hさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供BOX190の時間です。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生お元気ですか? 度々の質問にお答えいただきありがとうございます。
 さて、今回の質問はダビデの殺人についてです。旧約聖書には度々、殺戮の記述が出てきます。あのモーセですら殺人をしました。しかしそれにはそれなりの理由があったのだと考えられます。しかしダビデの殺人はその動機といい卑劣さといい許し難いものがあると思われます。例えば私がこのような殺され方をした場合、その人が神にどれだけ謝罪したとしても、とても許せる事ではありません。このようなダビデも赦されるのでしょうか? お金を盗んだならその倍にして返せばまだ当事者として許せる気持ちになるでしょう。でもどうして何の罪もないウリヤが、当事者として勝手に神に謝罪しているダビデを許せるでしょうか? ダビデは取り返しのつかない事をしたのです。
 先生の見解を伺いたく存じ上げます。」

 T・Hさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。今回はダビデ王が犯した殺人の罪についてのご質問です。番組をお聴きの方の中には、旧約聖書の歴史や話にあまり馴染みのない方もいらっしゃるかもしれません。蛇足かもしれませんが、まずは簡単にイスラエルの王ダビデとその犯した罪について簡単にお話します。
 ダビデ王という人物はサウルについで二番目にイスラエルの王様となった人物です。紀元前千年ごろイスラエルを治めた人です。その名声は後々まで語り継がれ、イスラエル歴代の王様の中でも最も重要な人物と見なされています。
 さて、そのダビデ王はある日、一人の女性が水浴びをしているのを、王宮の屋上から何気なく目にして、その美しさに心を惹かれてしまうのです。その女性がウリヤの妻であることを知りながらも、自分のところに召しいれ、床を共にします。やがてウリヤの妻、バト・シェバは子供を宿します。発覚を恐れたダビデは、夫のウリヤを戦地から呼び戻して、何とか妻のバト・シェバと床を共にするようにと仕向けます。しかし、ウリヤは自分の仲間たちが戦地で野営しているのに、自分だけが家に帰って妻と過ごすのをよしとしません。思惑通りに事が進まないダビデは、とうとうウリヤを戦いの激しい最前線に追いやり、わざと戦死させてしまうように謀ります。こうして、ダビデ王は自分では直接手を下すことなくウリヤを殺し、バト・シェバを妻として迎えたのでした(サムエル記下11章)。

 T・Hさんがきょうご質問くださったのは、この事件についてです。T・Hさん自身もこの事件についてこうコメントしてくださっています。

 「ダビデの殺人はその動機といい卑劣さといい許し難いものがあると思われます。例えば私がこのような殺され方をした場合、その人が神にどれだけ謝罪したとしても、とても許せる事ではありません」

 イスラエルの王としての功績がどれほどすばらしいものであったとしても、このような権力者の横暴は誰が見ても許しがたいと感じるのではないでしょうか。
 聖書自身も「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(2サムエル11:27)と記しています。
 それで神は預言者ナタンを遣わして、ダビデにその悪事を悟らせ、悔い改めに導きます。ダビデ王が自分の罪の告白をして「わたしは主に罪を犯した」と言ったのに対して、神は預言者ナタンの口を通してこうおっしゃいます。

 「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」(2サムエル12:13-14)

 さて、そこでT・Hさんはこの事件についてこうご質問しています。

 「このようなダビデも赦されるのでしょうか? どうして何の罪もないウリヤが、当事者として勝手に神に謝罪しているダビデを許せるでしょうか?」

 このご質問に答えるためには、「ゆるす」ということについて、言葉の整理をして置いた方が良いように思います。
 まず、ダビデの行なったことが是認され、許容されるかという意味で、「許されるか」と問われれば、そのような殺人行為は決して是認されることもなければ、許容されることもありません。社会正義の要求から言ってもそうなのですが、神の律法からみても、是認も許容もされない行為です。このことははっきりさせておくべき点であると思います。
 そもそも、ダビデのあのような行いが許容されることであれば、神は預言者ナタンを遣わしてダビデを叱責なさったりはしなかったでしょう。ダビデの行いは罪であり、その責任は他でもないダビデ自身にあるのです。

 では、被害者であるウリヤはダビデを許すことができるでしょうか。この場合の「ゆるす」というのは、加害者であり罪人であるダビデという人を受け入れることができるかということです。あるいは、ダビデの謝罪や罪の償いを受け入れて、以降、この件についてはそれ以上の責任を問わないことができるか、ということです。
 もちろん、ウリヤは既に死んでしまっているのですから、そういうこと自体ができないのですが、仮に生きていたとしたら、ウリヤはダビデの謝罪や償いを受け入れることができるでしょうか。これは、被害者であるウリヤにとってはとても難しいことであると思います。こればっかりは被害者には被害者としの感情があるわけですから、許さなければと頭の中で思っても、気持ちがそれについていけないということは当然あると思います。

 さて、問題なのは三つ目の「ゆるし」という言葉の意味です。聖書の世界では、罪は加害者と被害者という当事者間だけの問題ではありません。究極的にはすべての罪は神に対する罪として認識されているのです。
 預言者ナタンがダビデ王を叱責する言葉はこうでした。

 「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。」

 ここでは、ウリヤを殺害しウリヤの妻を略奪するという行為が、神の言葉を軽んじ、神に背く行為として非難され、神に対するダビデの責任が問われているのです。ですから、罪人ダビデの謝罪や罪の償いを受け入れるかどうかは、神の側の問題なのです。

 従って神の前に立ったダビデは「わたしは主に罪を犯した」と罪を告白しているのです。そして、それに対して神も預言者ナタンを通して「その主があなたの罪を取り除かれる」と宣言されているのです。
 加害者にとっては被害者との和解も大切なのですが、それに加えて聖書の世界では神との和解が大切なのです。それは、罪の告白に対して神だけが差し伸べることのでききる和解なのです。

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