BOX190 2009年11月11日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 神がいるなら何故? 東京都 D・Sさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのD・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「先生にお伺いしたいことがあるのですが、ほんとうに神様がいるのなら、どうして不幸な事件が起るのでしょうか。
 たとえば、罪のない小さな子供が犯罪に巻き込まれて死んでしまうという悲しい事件が実際に世の中では起ります。神様がいるとしたら、どうしてそのようなことがおこるのでしょうか。」

 D・Sさん、ご質問ありがとうございました。同じような問いはこの番組でも何度か取り上げたことがあるかと思います。おそらく、誰もが疑問に感じ、その答えを求めて、考えを重ねているのではないかと思います。
 わたし自身も、この番組の中でこの問題を何度となく尋ねられて、毎回新たな気持ちでこのことについて考えています。今回も昔の放送原稿にとらわれずに、もう一度このことを自分なりに考えてみたいと思います。

 ところで、この疑問というのは、いったいどんなところから出てくるのだろうか、ということを思います。
 たとえば、とても幸せな暮らしをしている人がいたとします。その人は「神様がいないのなら、何故わたしはこんなに幸せなのだろうか」と考えるでしょうか。あるいは、「わたしが幸せなのは神様がいるからに違いない」と思う人はどれくらいいるでしょうか。
 ほとんどの人にとって、自分が幸せであることは、神の存在と関係付けられることはまずありません。それは自分の努力で得たものか、あるいは、たまたま幸せになったというに過ぎないものです。それについて神の存在を持ち出してまで考えることはないのです。もし、どんな些細な幸せの中にも神の存在を思うのであれば、その人の人生観はまったく違うものになっているはずだと思います。

 ところが、不幸や悲惨なこととなると、途端に神の存在を絡めてしまうのはなぜなのでしょう。おそらく、楽しいことの理由は何であっても気にしないし、納得する必要もないのでしょう。けれども、不幸や悲しみの理由には、少しも納得できない理由があってはならないと思うからでしょう。この場合、「不幸や悲惨なことが起るのは、神がいないからです」という答えも、答えの可能性としてはあるはずです。しかし、そういう答えに納得して、不幸や悲しみを克服できる人はほとんどいないのでしょう。

 つまり、こういう疑問にとって一番大切なことは、神がいるのかいないのか、ということではなく、不幸な事件や悲惨な出来事をどう受け止めて克服していくのか、ということではないかと思うのです。

 思うに、神の存在を絡めてこの問題を扱おうとすると、結局のところ、「無慈悲で恐ろしい神」という歪んだ神のイメージをわたしたちが作り上げてしまうことになってしまいます。そして、そのようにして出来上がった神をいくら否定したところで、何の意味もないことです。
 わたしの考えでは、この世の現実をいくら観察したところで、神というお方の存在についても、また神というお方のご性質についても、何一つとして正しく理解できないのだと言うことです。
 言い換えれば、「神がいるなら、何故不幸な事件や悲惨な出来事が起るのか」という問いは、一見もっともらしい問いのように思えるのですが、しかし、わたしはその問いの立てかたでは、何一つ正しく物事を捉えることができないのだと考えます。

 そもそも、「神がいるなら」という前提の中に、既にその人が描く神のイメージが存在しているからです。しかも、その神は人間によって把握することのできる神でなければならないという前提が暗黙のうちにあるのです。神が人間を超越した存在であるということを受け入れている世界では、この種の疑問はそれほどでてくることはないでしょう。なぜなら、神の知恵は人間に遥かに及ばないことだからです。

 神がいるかいないか、ということからこの世に起る不条理な出来事を説明しようとしても、それはそもそも意味のあることではありません。いえ、人間的な考えからすれば、結論は二つしかありません。それは、「神がいないから、偶然に不条理なことが起るのだ」という答えか、あるいは、「神は確かに存在するが、その神は気まぐれで意地悪な神で、人間が不条理に苦しむことを楽しんでいる」というものです。

 もちろん、その二つの答えは、どちらも聖書が教えている真理とはまったく異なるものです。

 では、正義と愛の神の存在を信じるキリスト教では、この世の不幸と悲惨とをどう理解しているのか、という疑問が当然出てくるでしょう。
 それについてはある程度までは答えることができます。不幸も悲惨ももとをたどれば、人間自身のうちにある根源的な罪の問題に行き当たるということです。個々人の特定の悪い行いが、特定の不幸や悲惨に繋がっているというのではありません。そうではなく、根源的な罪の問題…キリスト教の用語で言う「原罪」と呼ばれるものがそこに深く関わっているということです。
 そして、神はこの問題を決して放置しておられるのではなく、イエス・キリストを通して、人間を根源的な罪から解放し、究極的な救いを与えることを約束してくださっているのです。

 けれども、その答えに対しても、もし神が愛であり正義であるなら、悲惨や苦しみを今すぐ解決なさらないのか、という新たな疑問が湧き出てくることでしょう。

 そうして、次々に湧き出てくる疑問のすべてに、クリスチャンが答えることができるかといえば、それは不可能です。聖書が語る限りの範囲では答えを用意することができるでしょう。しかし、それを超えて何かを言うことはできないのです。クリスチャンが知らないこと、答えられないことが山ほどあるのです。

 わたしたちが本当に取り組まなければならない問題は、この世の悲惨な事件や不幸な出来事に遭い、悲しみ苦しんでいる人たちとどう生きていくのか、ということであるべきです。そのことの方がもっと中心的で大きな問題であると思うのです。

 「神がいるのなら、何故悲惨なことが起るのでしょう」という疑問は、誰もが聞いてみたい疑問ですが、しかし、そこからはわたしたちを納得させ、安心させるようなどんな答えも導き出せないのです。

 問題のすり替えといわれるかもしれませんが、わたしたちにとって大切なのは、悲しみや苦しみの中にある人たちと、どう向き合って、共に生きていくのか、そのことに真剣に取り組むべきではないかと思うのです。

 わたしは、そのことを考え実践することを通して、愛の神をより深く知ることができるのだと思います。

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