聖書を開こう 2009年12月10日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イエスを告白する力と恵み(ルカ12:8-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 まだ起ってもいない迫害についてあれやこれやと心配するのは、ある意味とても馬鹿げたことかもしれません。自分はきっと拷問に耐えられなくて、キリスト教を捨ててしまうかもしれないといって、絶望的になってしまうのでは、健全な信仰生活そのものが送れなくなってしまいます。
 逆に自分はどんな責め苦にも耐え抜いて、きっと信仰を貫いてみせると豪語することは、最後の晩餐の席上でのペトロの発言に似て、まったく何の根拠もない強がりに過ぎません。

 イエス・キリストは確かにわたしたちを迫害そのものから逃れさせてくださるとはおっしゃってくれてはいません。しかし、決してわたしたちを絶望のどん底に突き落としたりもなさらないのです。
 迫害が起ることを前提としながらも、なお、その中で信仰に踏み留まる勇気と力をお与え下さっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 12章8節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

 前回の学びでは、迫害の中にあってわたしたちは誰を恐れなければならないのか、ということを学びました。そして、ほんとうに恐れなければならないお方が、わたしたちの命をどれほど慈しんでくださるお方であるかということも同時に学びました。
 今回の箇所では、迫害の中にあってもイエス・キリストを公に言い表すことの大切さと、またその力を与えてくださる神の恵みについて、イエス・キリストは力強く語ってくださいます。

 イエス・キリストはおっしゃいます。

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」

 わたしたちはこの言葉を耳にしたときに、まず最初に後半の部分で言われるネガティブな側面に心を留めてしまいがちです。
 公の場でイエスを知らないと言う者に対して、イエス・キリストもまた最後の審判の時にその者を知らないと言われる。そうなりたくなければ、イエス・キリストを堂々と告白しなさい。そのようにイエス・キリストがおっしゃっていると受け止めるべきではありません。

 イエス・キリストが一番におっしゃったことは、イエス・キリストと結ばれていることの幸いです。最後の審判の時に神の国に入れられるのは、何よりもイエス・キリストと結びついているかどうかというという信仰です。イエス・キリストはたくさんの条件を出して、それが守れないなら、わたしの仲間でもなければ、神の国の一員でもないとおっしゃっているのではないのです。むしろ、自分でも負いきれないほどの重荷を負わせ、それを守らないならば、神の国に入れないと教えているのはファリサイ派や律法学者の人たちです。彼らの目から見れば、キリストに従う弟子たちは神の国に入れない罪人でしょう。
 しかし、イエス・キリストはそうではないとおっしゃるのです。イエス・キリストと結びついている者こそが、キリストとともに天の御国に入るのです。だからこそ、自分がキリストに結びついた仲間であることを公然と言い表すことは、少しも恥かしいことでもなければ、恐れを抱くことでもないのです。むしろ、この幸いをわたしたちはいつもしっかりと心に留めておくことが大切なのです。

 その昔、豊臣秀吉の時代、京都で捕らえられた26人のキリシタンたちが、長崎の西坂で十字架にかけられ処刑されると言う事件が起りました。その26人のうちの最年少だったルドビコ茨木はわずか12歳の少年でした。あまりにも幼い少年を気の毒に思った役人が「信仰を捨てさえすれば助けててやる」と助けの手を差し伸べました。しかし、このルドビコ少年は、この世のはかない命を得るために、永遠の命と引き換えにすることは出来ないと拒んだと伝えられています。

 ルドビコ少年は、キリストに見捨てられる恐怖心からではなく、キリストと共にある永遠の命の素晴らしさを大切にしてキリストへの信仰を守り抜いたのでしょう。

 もちろん、何をどう言うべきかを備えてくださるのは、聖霊のはたらきだとイエス・キリストはおっしゃいます。だからこそ前もってあれやこれやと必要以上に心配してしまい、心をふさいでしまってはいけないのです。
 イエス・キリストご自身が、わたしたちの弱さを誰よりもよくご存知です。どんなときにも聖霊の助けに謙虚に信頼して歩むようにとわたしたちを励まして下さっているのです。

 ところで、これらのイエス・キリストのお言葉の中で、一つだけ気になる言葉があります。

 「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」

 「赦されない」という否定的で断定的な言い方に、真面目な信仰者ほど恐れをなしてしまいます。自分は聖霊を裏切ってはいないか、日々の信仰生活を真面目に点検すればするほど、自信を失ってしまいます。
 しかし、ここでいう「聖霊を冒涜する者」というのは、悔いてはまた罪を犯してしまう人間の弱さのことを言っているわけではありません。聖書自身、クリスチャンであっても罪の誘惑に陥る弱さがあることを認めています(マタイ18:21-22、ガラテヤ6:1-4、ヤコブ5:15-16、1ヨハネ2:1)。もちろん、聖書はそれで良いと是認しているわけではありません。しかし、そのような弱いクリスチャンは決して赦されないとは言われないのです。

 では、「聖霊を冒涜する者」とはどういう人のことでしょうか。

 イエス・キリストは「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とおっしゃいました。また「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」ともおっしゃいます。「聖霊を冒涜する者」とはそうした一連の流れの中で捕らえるべき言葉です。
 イエス・キリストを救い主として告白することも、信仰を弁明することも、聖霊の働きによってこそできることです。一時的な気の迷いや、一時的な人間的な弱さからではなく、故意にこの聖霊の働きを拒み、逆らいつづけたとすれば、それは自分で救いを放棄してしまっているのです。聖霊を冒涜するとはそのような罪です。

 しかし悔い改めても救われない罪はありません。何度でも悔い改めるチャンスはあります。人々の前でイエスを知らないと言ったペトロのことを思い出してください。あのペトロでさえ、イエス・キリストは赦してくださったのです。聖霊の導きに謙虚に聞き従い、いつも悔い改めのあるところに、聖霊は豊かに働いてくださるのです。そのことを信頼して進むときにこそ、迫害をも乗り越える勇気と力が与えられるのです。

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