BOX190 2010年3月17日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

放送
山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 様々な疑問 ハンドルネーム・tadaさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさん、男性の方からのご質問を取り上げたいと思います。いつもたくさんのご質問をいただいておりますので、きょうは五つまとめて取り上げたいと思います。まずは最初のご質問です。

 「母親の愛情は大きくて深いものだと思います。しかし、世の母親を見ていると、自分の子供だけを愛し可愛がる人が多く、その姿は動物の母親=メスの愛情と同じではないでしょうか。そして、そういう母親の行動が、差別と偏見を生みだしているように思われます。では、人間としての“母の愛情”はどうであればよいのでしょうか。それは、聖書で言われているように、『すべての子供や小さい人々』に神様が与えてくださった“母の愛情”を注ぐことではないでしょうか。それこそ、神様が望まれていることだと思います。」

 tadaさんからのご質問を読ませていただいて、私の中で様々な疑問が湧きました。tadaさんは「自分の子供だけを愛し可愛がるのは動物の母親=メスの愛情と同じだ」とおっしゃっていますが、果たしてそう結論することが正しいのかどうか素朴な疑問です。他のメスの産んだ子供を育てる行動パターンの動物がいてもよさそうな気がします。たとえばマッコウクジラは集団で子育てをしていると聞いたことがあります。そのあたりは動物生態学者や動物行動学者の先生に尋ねてみたい疑問です。
 もう一つの疑問は、母親が自分の子供を優先的に愛することが差別と偏見を生み出す最大の原因かどうかという疑問です。もしそれが本当なら、動物社会は差別と偏見に満ちていることになります。けれども、群れの中で障害をもった子供を集団でかばう猿の群れの映像を見たことがあります。たしか、淡路島のモンキーセンターの話だったと思います。自分の子供だけを愛し可愛がるのは動物の母親で、それが差別と偏見を生み出しているという考え方こそ、母親に対する偏見のように思えます。そもそも、差別と偏見に男性は大した責任はないのでしょうか。

 そうした様々な疑問は横に置くとして、「“母の愛情”はどうであればよいのでしょうか」という部分についてお答えするとすれば、「すべての子供や小さい人々」に愛情を注ぐことは母親にだけ求められていることではなく、男性も含めた人間全体に求められていることではないかと思います。そして、ついでに言えば、その理想をなかなか実現できない苦しみを多くの人が感じているのではないでしょうか。

 続いて二番目のご質問です。

 「ある放送局のニュースで、アメリカでクリスマスを祝うために使われたツリー用の木が3,000万本あり、役割を終えた木の焼却処分に手間取っている、という内容が報道されていました。イエス・キリストの誕生を祝う降誕祭も、最近言われている地球環境には優しくない行事になっているのではないですか。」

 わたしもアメリカで暮らしたことがあり、クリスマスツリーが無駄に伐採され、使い終わったら捨てられていく光景を目の当たりにしたことがあります。何ともったいない、というのが一番最初に思ったことです。地球環境のことを考えれば、tadaさんのおっしゃる通りです。

 ところが、地球環境のことだけで世の中が一つになれないのが現実の世界の悲しさです。経済と暮らしと地球環境は一体になっていて、一方を立てれば、一方が成り立たないということがあるようです。経済と暮らしを守りながら、地球環境を守っていくにはどうしたらよいか、クリスマスツリーの問題に限らず、皆が頭を悩めているのではないでしょうか。

 では、三つ目のご質問です。

 「国際ニュース番組で、ヨーロッパ共同体:EUの加盟問題に関して、『EUコンディショナリー』という用語が使われていました。それはこういう意味だそうです。『これこれの条件を満たした国は仲間に入れてあげるという考え方』
 この報道を聞いたときに、キリストの教会も同じようなものだと思いました。いわゆる『神の家族』という概念です。つまり、口で公に信仰を言い表し洗礼を受けた者だけが入れる『サークル』です。2つとも同じではないですか。」

 「EUコンディショナリー」と「信仰の告白」を求める教会の条件とを同列に置いてしまうのは、ずいぶん乱暴な意見だと思いました。そもそも、ある集団に加わるのに、何の条件も必要ないというような集団があるのでしょうか。教会が「信仰の告白」を求めるのは、教会という共同体が存在している趣旨の理解を求めて、それに同意していただくということにほかなりません。それは教会という共同体が成り立っていくために必要な条件です。もし、集団の存在理由や存在の趣旨に同意することなく加入することができる集団があるのならば、是非教えていただきたいと思います。

 続いて四つ目のご質問です。

 「私は長い間、インターネットなどで聖書の解説や説教を聞いてきました。その時間を調べてみたら、6,000時間以上になっています。そして、その都度、聖書の引用個所には、マーキングや書き込みをしてきましたので、聖書の多くのページに開かれた跡があります。しかし、良く見てみると、新約聖書はすべてのページにマーキングがありますが、旧約聖書はほとんど同じ個所ばかりが何度もマーキングされています。この事実は、説教などで引用しているのは、旧約聖書の特定の箇所だけを読んでいることになります。つまり、このことは聖書の都合のよい箇所だけを選んで読んでいることになりませんでしょうか。」

 このご質問には「はい」とも「いいえ」ともお答えできません。そもそも、インターネットなどに限って調べていること自体が、tadaさんのえり好みや都合と言えるかもしれません。インターネットやラジオやテレビで聖書の解説や説教をするのは、そのメディアを使う側の目的があります。ですから、当然、目的にかなう聖書の個所が優先的に選ばれるのは仕方のないことです。それを批判することはできないでしょう。わたしは「聖書を開こう」という番組をかれこれ10年間担当していますが、66巻ある聖書のうち、全部取り上げた個所はまだ九つにすぎません。それも新約聖書ばかりです。他の番組は聖書を連続して学ぶという趣旨ではありませんし、五分という短い時間の中ですから、とてもすべての個所をまんべんなく取り上げるのには向いていません。
 もしtadaさんが聖書全体について学びたいのであれば、いくつもの聖書注解書があります。それらは、シリーズとして聖書全体を扱っているものもあります。また、聖書注解書のように専門的な内容の書物ではなく、日々の聖書通読のための副読雑誌もいくつか出ています。聖書全体についてまんべんなく学びたいというのであれば、そういったものをご利用になるのが一番かと思います。

 では、最後のご質問です。

 「2009年9月16日に放送していただいた『教派の違いは?』のお答えでは、日本には260の教派があって、一般信徒はその違いを知らずに参加していること、そして、自宅の近くの教会に行くことも選択肢として妥当であること、を示していただいたと思います。そうであるならば、信徒の方々は、教会の場所や、牧師の人柄や、信徒仲間などによって、教会を選んでいるということでしょうか。」

 すべての信徒がみなそうだとは言いませんが、そういう人もいると思います。そして、そういう選び方を頭から批判するつもりはありません。わたしと同じ教派を選らばなかったことを悲しく思うよりも、わたしの教派と共通の基盤をもったキリスト教会の礼拝にその人が与っていることをわたしはうれしく思います。

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