熊田なみ子のほほえみトーク 2010年3月2日(火)放送

熊田 なみ子(スタッフ)

熊田 なみ子(スタッフ)

春の息吹−SNSぱじゃぱじゃ日記より Hiroさん他−

 旧約聖書ホセア書の中に春になると強く心に想い出される箇所があります。それは次のようなみ言葉です。

 「われわれは主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」(5章3節)

 このホセア書は、2009年11月のリジョイス(聖書日課)で扱われた所です。HPでは、戻って聴いたり読んだりできますよ。3月は卒園や卒業、そして4月からの新たな出発に備えるときですね。早春の息吹を身体一杯に感じながら季節がめぐることの不思議を覚えます。あなたにとって今年の春はいかがでしょうか?大自然が蘇る春。もうすぐイースターです。お互いに主イエスさまをますます知って歩いて行きたいですね。

 さて、今日は久しぶりにぱじゃぱじゃ日記のご紹介。早いものでこのSNSが始まって3年目になります。それぞれの「マイダイアリー」が時の流れの中で神様の恵みを賛美しています。事実としての恵みの実感があること。大きな証ですね。私もnami日記を書いてきましたが、今日は、Hiroさんの人生に起こった不思議な出会いのお話です。

     「天の国のつながり」

 嬉しくて言葉に表せないほど不思議な導きがあったのです。

 礼拝出席を始めるよりずっと以前、私の叔母は戦後間もなく病気になり、入退院を繰り返す生活を続けていました。私は「病院のおばちゃん」と呼んでいましたから寝間着姿の叔母の姿以外記憶がないほどです。いつも厳しい表情、ある時まで本当に近寄りがたい人でした。
 「ある時」というのは、ルカ病院という名の病院へ転院するまでです。私は月に一度程度、母の代わりに身の回りの品を届けていたのですが、徐々に叔母が穏やかな明るい笑顔を見せるように変化しました。当時、私は高校生。叔母を変えたのは聖書であることを知り、「いつか私も」と思ったものです。でもキリストの救いとは何であるかなど考えもせず、まるでお店に入るように教会へはいつでも行けるものだと思い込んでいました。

 残念ながら叔母は19年前、天に召されました。事情があって葬儀は仏式。私は勿論、親類縁者にクリスチャンはいませんでしたから悲しいかな、何の疑問も持たなかったのです。

 三浦綾子さんが亡くなって10年。彼女の話題が出るたびに叔母のことを思い出していました。戦争によって身体ばかりでなく心まで傷ついた点で重なることが多かったからです。

 「叔母は洗礼を授かっていたのだろうか」「病院の横は日本キリスト教会だったはず。」といろいろ考えていました。教会で牧師先生に相談しましたら訊いてくださり、牧師ご夫妻からメールをいただき1973年12月23日受洗していたことがわかりました。
 そして、授けてくださった三好先生のお名前を知り、はっとしました。夫の故郷、四国と北海道の繋がりということで義父が話してくれていたこと。三好先生ご夫妻は、義父が40年以上牧師を務めた宿毛教会から神戸の神学校にお入りになって、その後北海道で戦前、戦後を通して伝道の業に励まれたのです。…私と夫との出会い、叔母を通して与えられた神様の御業、天のつながり…」

 Hiroさんの人生に起こった不思議な出来事。この後、叔母様の教会の聖書の学び、祈り会にいらっしゃったとのことです。日記の最後には、「神様の蒔かれた種は少しずつですが成長しています」とありました。思ってもみなかった天のつながり、生きて働いてくださる神様に心から感謝ですね。  くまだなみこ

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