聖書を開こう 2010年4月1日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 失われた者を探し出す神の喜び(ルカ15:1-10)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「神は人間が生み出した妄想に過ぎない」という意見をよく耳にします。敬虔な信仰者が聞いたら、怒るよりも呆れてしまうかもしれません。
 しかし、その言葉はあながちすべてが間違っているとはいえないように思います。
 罪深い人間というものは、実に自分勝手です。自分の都合の良いように神の像を描いてしまいがちです。自分に味方して他人を裁いてくれる神であったり、自分が嫌いだと思うことを、同じように嫌ってくれる神であったり、あるいは自分自身を受け入れられない自分を、同じように受け入れてくださらない神であったり、結局は自分の小さな分身のような神をまことの神と思いこんだりしまいがちです。
 しかし、まことの神を知りたいと思うなら、神ご自身がご自分を表す言葉や業に心を留めるよりほかはありません。神の啓示によってしか神を知ることはできないのです。聖書を読むということは、自分が期待する神の姿を聖書に読み込むことではありません。その反対で、神がどのようなおかたであるかを、神の言葉である聖書自身に語らせることなのです。

 きょう取り上げる個所には、神とはどのようなお方であるのかが描かれています。しかし、その神の姿は、イエスの時代のある人々には思いもよらない姿でした。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 15章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 今日から取り上げようとしているルカによる福音書の15章には、同じ主題をもった譬え話が三つ連続で語られています。一つは「いなくなった一匹の羊のたとえ」です。もう一つは「無くなった銀貨のたとえ」です。そして三つ目は、来週取り上げようとしている有名な「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるたとえ話です。どれも失われたものに対する神の愛が印象深く例えられています。

 そもそも、これらのたとえ話をイエス・キリストがお語りになったのは、罪人を受け入れて食事をしているイエス・キリストに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちが不平を漏らし始めたからです。
 その罪人呼ばわりされているイエスのまわりに集まった人々というのは、イエスを非難したファリサイ派の人々や律法学者たちとは違って、少なくとも「聞く耳のある者は聞きなさい」(14:35)とおっしゃるイエスの言葉を真摯に受け止めて、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た人たちです(15:1)。

 イエス・キリストはご自分のそばに集まってきたこれらの人たちを弁護して、神がどんなお方であるのか、どんなことを望んでいらっしゃるのかを、たとえ話を通してお語りになったのです。きょうは三つのたとえ話のうちの二つをまず取り上げて学ぶことにします。

 この二つのたとえ話に共通していることは、失われたものがいるという点です。最初のたとえでは、迷い出た一匹の羊であり、もう一つのたとえでは失われた一枚の銀貨にたとえられています。きょうは取り上げませんが、三つ目のたとえ話では、残っていると思われる者も実は失われた者であることが明らかにされます。
 これらの失われたものたちは、ただ、ファリサイ派の人々や律法学者たちが後ろ指を指して罪人呼わりしている人々だけのことを言っているのではありません。ほんとうは神の目の前にはすべての人が罪人であり、すべての人が神の目の前に、失われたものなのです。ただ、最初の二つのたとえ話では、あえてファリサイ派の人々や律法学者たちの選民意識に合わせて、百匹から迷い出た一匹であったり、十枚のうちのなくなった一枚として描かれます。
 イエス・キリストを非難するファリサイ派の人々や律法学者たちにとっては、自分たちが失われた側にいないことこそ重要な点でした。そして、そのことを神は望んでいると確信したのです。失われたものへの関心など、神はお持ちにあるはずがないとさえ考えていたにちがいありません。
 たとえ話の語り出しを聞いて、ファリサイ派の人々や律法学者たちはまさに「わが意を得たり」と思ったに違いありません。「われわれこそ残りの九十九匹、残りの九枚の銀貨だ」とほくそ笑んだに違いありません。いなくなった一匹も、無くなった一枚の銀貨も、失われるがままに放っておけばよいとさえ思ったに違いありません。

 しかし、イエス・キリストはファリサイ派の人々や律法学者たちの思いに反して、失われたものを必死で探す人物をたとえ話に登場させて、失われた罪人に対する神の愛といつくしみとを描いて示されたのです。

 実に神はどんな努力をも惜しまずに、神のもとを離れた罪人を探し求められるお方なのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちが拒もうとした徴税人や罪人をこそ、神は探していらっしゃるのです。それも、見つかるのをただ待っているという姿ではありません。偶然出てくるのをじっと待っている姿では決してありません。見つかるまであきらめずに探し続ける姿です。

 そればかりか、この二つのたとえ話には、見つけた時の喜びの大きさが描かれています。迷子の羊を見つけた羊飼いは、大喜びで羊を連れ帰り、みんなと一緒にこの喜びを分かち合おうとします。
 同じように、失くした銀貨を見つけた女は友達や近所の女を呼び集めて、一緒に喜んでほしいとさえ言います。

 この喜びの大きさは、失われたものが持ち主にとってどれほど大切なものであるのかを物語っています。ファリサイ派の人々や律法学者たちの目には救われるに値しない「徴税人や罪人」であったかもしれません。しかし、神には大きな喜びに値する大切な存在なのです。

 イエス・キリストがご自分の話を聞こうとして集まってきた人たちを受け入れ、喜んで一緒に食事をされたのは、失われたものを探し求めていらっしゃるこの神のお心を行っているのです。

 言い換えるなら、父なる神は、御子イエス・キリストを通して、それも身代わりの十字架の死をもあえて引き受けるキリストを通して、失われた罪人たちを迎え入れようと探し求めていらっしゃるのです。

 神はそのようにわたしたち罪人を喜んでむかえいれてくださるのです。また一人の失われた人が神のもとへと立ち返ることを、神と共に喜ぶことを神はわたしたちに期待していらっしゃるのです。神の国の福音を伝える伝道は、この神のお心に倣うものなのです。

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