聖書を開こう 2010年12月2日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: ペトロの弱さと主の慈しみ(ルカ22:54-62)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 進んで迫害に遭いたいと願うクリスチャンはほとんどいないと思います。できることなら、迫害などない穏やかな信仰生活を送りたいものです。しかし、迫害に遭わなければならないとしたら、その迫害に耐えられるような強い信仰でありたいと願うのはクリスチャンなら誰でもが願うことであると思います。
 けれども、実際に迫害に遭った時に、果たして信仰を貫き通すことができるのかどうか、それに自信を持って答えることができる人はそう多くはないことでしょう。
 十二弟子の一人、ペトロの生涯を知っている人は、なおさらのこと、人間の決心がどれほど当てにならないものであるのか、痛いほど知っているはずです。

 きょうは、そのペトロが生涯忘れることができないほどの大失態をしてしまう記事から学ぼうとしています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 22章54節〜62節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 先週はイスカリオテのユダの裏切りの記事を学びました。このユダの手引きによってイエス・キリストは捕らえられてしまいます。きょうは捕らえられたイエス・キリストが大祭司の家で取り調べを受けようとする場面です。その取り調べに先だって、ことの成り行きを見極めようと、逮捕されたイエスに遠巻きながらついて行ったペトロのことが記されます。

 ペトロはほんの何時間か前、イエス・キリストと最後の食事をしていたときに、大胆にもこう約束しました。

 「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)

 遠くからではありましたが、とにかく逮捕されたイエス・キリストの後に従って大祭司の家までついて行きました。しかも、身の危険も顧みず、大祭司の家の中庭にまで入り込んで、他の群衆にまぎれて一緒に焚き火にあたっていました。

 確かにここまでのペトロの行動は、大胆で勇気ある行動であったと言えるかもしれません。少なくとも他の弟子たちは姿をくらませてしまっていたのですから、ペトロの行動は際立っています。

 ところが、大祭司の家の女中がペトロを見て「この人も一緒にいました」と言うと、ペトロは途端に狼狽し始めて「わたしはあの人を知らない」と答えてイエスとの関係を打ち消そうとします。
 しかし、それでもその場を逃げ出したりはしませんでしたから、勇気があると言えばそう言えるかもしれません。

 少したってから、別の人が同じようにペトロを見つけて、こう言います。

 「お前もあの連中の仲間だ」

 これに対しても、ペトロはその事実を否定して「いや、そうではない」と答えます。

 一回目のときは、何の心の準備もなくふいに聞かれたことなので、つい本能的に自分の身を庇ってしまったと言い訳ができるかもしれません。人間ならそういうこともあるでしょう。

 しかし、二度目の時には、少なくと他の人からも同じことを聞かれるかもしれないという予測ができたはずです。ついうっかりして心にもないことを言ってしまったなどとは言い訳ができないことでしょう。

 そうこうするうちに三度目の機会が巡ってきます。しかも、その間に一時間も時間が経過します。自分の身に危険が及ぶ場所に一時間も居続けたのですから、ペトロには余程の覚悟があったと言えるかもしれません。
 しかし、この一時間の間に、ペトロはほとんど何も反省したり思いを巡らせたりしていなかったことが、三度目のやり取りから分かります。

 「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と強く言われると、もはやそれを否定するのに躍起になって「あなたの言うことは分からない」と支離滅裂な答えをします。

 マタイによる福音書によれば、ペトロがガリラヤの者だと悟られてしまったのは、その言葉づかいからであると記されています(マタイ26:73)。ガリラヤの人たちが一部の単語を発音で区別できないことは、タルムードの中にその例が記されているとおりです(b.Erubin 53b)。言葉のなまりを指摘されて、それを打ち消すのに躍起になっています。数時間前にイエス・キリストから指摘されたことを思い出す余裕もないほどです。

 イエス・キリストはペトロにこうおっしゃっていました。

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(ルカ22:31-32,34)

 果たして予告の通り、鶏が鳴きます。

 さて、ここからの部分はルカ福音書だけにしか記されていなエピソードです。

 まず、イエス・キリストが振り向いてペトロを見つめます。それから、そのイエスのまなざしに促されるように、ペトロがイエス・キリストの言葉を思い出します。そして、ペトロは外に出て激しく泣いたとあります。

 ルカ福音書の書き方によれば、ペトロがキリストの言葉を思い出し、自分の情けないほどの姿に気がついたのは、単に予告通りに鶏が鳴いたからではありません。そうではなく、主のまなざしを感じたからです。

 ペトロは自分が語った言葉、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」という言葉が、どれほどふがいない覚悟であったのかということを、主イエスのまなざしの中で気がつかされました。

 しかし、同時に、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と語りかけてくださったキリストの慈しみ深い言葉を思い起こしたはずです。

 主のまなざしがわたしたちに自分のほんとうの弱い姿を悟らせ、主のまなざしがわたしたちを支えて祈ってくださる主の慈しみを悟らせて下さるのです。

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