BOX190 2011年1月12日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 天国は退屈なところでは? 和歌山県 ハンドルネーム・グリーンさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は和歌山県にお住まいのハンドルネーム・グリーンさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「先生、いつも的確なきめ細かいお答えをありがとうございます。
 不謹慎な質問ですが、神の国(天国)というところは退屈なところではないでしょうか。音楽は賛美歌だけで、カラオケも演歌もないし、サッカーも野球もゲートボールもないだろうし、ミュージカルも見れないし、映画もないし、何もすることがなくて退屈だと思います。もしかしたら、天国の住人は地上の人間が幸せになるように働きかけていて、毎日忙しいのですか。イエス様や神様と一緒にいる天国とはどのようなところですか。先生、どうか教えてください。」

 グリーンさん、お便りありがとうございました。お便りを読ませていただいて、いろいろな意味で刺激を受けました。まず、ご質問に接して最初に思ったのは、発想のユニークさです。
 具体的に物事を描くことがあまり得意ではないわたしにとって、天国の詳細部分についてそれほど気にしたことはありませんでした。漠然としか天国について考えてこなかったわたしには、グリーンさんのご質問がとても新鮮に感じられます。それと同時に、グリーンさんがどんなお方なのか、とても興味と関心を覚えました。

 そもそも言葉で物事を描くのと、絵や映像で物事を描くのとでは、物事の描きかたは全然違います。その違いは映画化された小説のことを考えてみると一番良く分かると思います。
 小説は文字で描かれていますから、登場人物の姿や声の質や、町の景色や、その景色の中にいる人や動物の描写は、作者の言葉でだけ表現され、それを読んだ人の頭の中でその様子が再現されます。作者が細かく描いている部分は別として、それ以外の部分は読者自身が想像を広げていく世界です。
 ところが、小説が映画化されるときには、文章に必ずしも描かれていない部分も映像として見せなければならない場合があります。主人公の服装について細かく描かれていなくても、だからと言って裸の主人公を映像化して見せるわけにはいきません。その場面の光の当たり方について、小説では描かれていなくても、映画にするときには光がまったくなければ、真っ暗な世界になってしまいます。
 そうして出来上がった映画は、小説を読んだことがある人にとっては、意外であったり驚きであったり、場合によってはがっかりしてしまうということもあるでしょう。

 今、グリーンさんからのご質問を受けて、まるで天国を映画化してほしいというリクエストを受けたような思いです。
 わたしの頭の中では、聖書の言葉から描かれる天国の様子は、幸福に満ちた世界というイメージで十分なものでした。イエス・キリストがいて、わたしや他の人々がいて、光と平安と幸福に満ちている世界というだけで、とくにそこいにいる人たちの趣味や好物や、毎日の生活や、暇なのか忙しいのか、退屈なのか、そんなこと細かなことまで気にしたことはありませんでした。

 ところで、今まで「天国」という言葉を特に定義もしないで使ってきましたが、聖書の中で「天国」あるいは「天の国」という時には、「神の国」というのと同じ意味です。実は「天の国」あるいは「天国」という言葉はマタイによる福音書に三十数回出てくるだけで、聖書の他の個所では一度も使われない言葉です。

 では「天国」と同じ意味の言葉、「神の国」とは何か、というと、それはイエス・キリストと共に到来し(マタイ12:28)、世の終わりの時に完成される、王としての神の完全な支配と言うことができると思います(1コリント15:20-28)。イエス・キリストを信じる者たちが世の終わりの時によみがえって入るのは、まさにこの「神の国」です。「神の国に入る」というのも「永遠の命を得る」というのもほとんど同じ意味に使われています(マルコ10:17と23を比較。ダニエル12:2参照)。

 しかし、一般的に「天国」という言葉を使うと、死んだあと、復活の時まで救われた人が過ごす場所、という意味で使われています。グリーンさんのご質問も、その意味での天国のことをお考えなのだとお見受けしました。

 さて、聖書には神の国の完成についてのイメージはあちらこちらで語られているのですが、死んだ後、神を信じる者たちがどこでどう過ごすのか、というイメージについてはそんなに数多くは語られていません。特に旧約聖書が描く死後の人間の状態のイメージはほとんど希望的なことは語られていません。

 では、新約聖書ではどうかというと、まず思い出されるのが、イエス・キリストがお語りになったラザロと金持ちの話です(ルカ16:19以下)。ラザロは死んだあと、天使たちに伴われて天の宴会へと招かれます。肉体のないラザロやアブラハムが、そこでどのように宴会を楽しむのか、という疑問は、この場合あまり意味がありません。宴会というのはイメージの問題です。救われた者たちが死後に行く世界は、宴会に象徴されるように、神との交わりの中で幸福に満ち足りたポジティブなイメージなのです。

 また、イエス・キリストはご自分と一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。「楽園」と訳されている言葉はパラデイソスというギリシア語ですが、新約聖書ではここの他にコリントの信徒への手紙二の12章4節と黙示録2章7節に出てきます。もともとは「囲われた広い庭」を意味するペルシア語からきた言葉ですが、エデンの園になぞらえることができるような神の祝福に満ちた場所です。黙示録ではそこに命の木があり、パウロはその「楽園」にまで挙げられた経験をもつ男について言及しています。
 これだけの個所から「楽園」についてのイメージを細かく描くことは不可能ですが、この「楽園」は、救われた者が、世の終わりの復活の時まで留まっている場所と考えられています。そのイメージはエデンの園での神との交わりですから、やはり肯定的なイメージであることには間違いありません。

 また、パウロは「どこ」という具体的な場所のイメージでは語ってはいませんが、「この世を去ってキリストと共にいたい」という熱望をフィリピの信徒たちに語っています(フィリピ1:23)。パウロにとって死とは、この世を去ってキリストと共にいることです。そして、そのことを「はるかに望ましい」とさえ言っています。この場合にも、救われた者が死んから行く場所は、「キリスト共にいる」というポジティブなイメージで語られています。

 さて、新約聖書はいわゆる「天国」のイメージについて、これ以上のこともこれ以下のことも語っていません。これはやがて世の終わりの時に完成される「神の国」での生活についてもほぼ同じことだと思いますが、神との交わりから来る完全な祝福と幸福が、その世界が持っているイメージです。天国や神の国では、娯楽や仕事がなくなってしまうのかどうかは分かりませんが、わたしは、エデンの園での暮らしのように神の国でも働きや楽しみがあると思っています。どっちにしても、不幸だとか、退屈だとか、暇で仕方ないという気持ちになるようなところではないと信じています。聖書が描く「宴会」や「楽園」や「キリストが共にいる」と描かれる天の国は、退屈な思いに人をさせない、しかし、労働が呪いとなって人をあくせくするだけの忙しい世界でもない、幸福感に満ち足りた世界であることは、聖書の語るところだと確信いたします。

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