キリストへの時間 2013年5月26日(日)放送 キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 主我を愛す

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 古くから歌われている子ども讃美歌に「主我を愛す」という歌があります。きっとラジオを聴いてくださっている方の中にも、一度はこの讃美歌をお聴きになったという方も多いのではないかと思います。

 「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」と始まります。もともとは英語の歌ですが、日本語に訳されたこの歌詞も、聖書の教えを見事に歌っていると思います。

 聖書の教えは、神がわたしたちを愛してくださっている、という一言に尽きます。聖書の言葉に、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。この神の愛が、罪に滅びるわたしたちを救いだしてくださいます。わたしたちを永遠の滅びから救いだすために、神の独り子であるイエスを神はわたしたちのところへとお遣わしになったのです。

 「主我を愛す」…これほどに力強い言葉はありません。主がまずわたしたちを愛してくださるからこそ、救いの実現は確かなのです。

 ところで、英語の歌詞は「主我を愛す」という歌詞に続いて、「なぜなら聖書がそう語っているからだ」と歌います。

 これはとてもシンプルな信仰です。わたしたちが神の愛に気がつくのは、この世の中を観察して得た結論ではありません。もし、この世の中を観察すれば、神の愛に気がつくどころか、不条理な世界に失望するだけです。誰もがこの世の不条理に失望し、希望を見いだせずにさまよう中で、「聖書が語っているからだ」とこの歌は歌うのです。

 聖書が語る神の愛に気がつくとき、不条理と思えることの中にも神の愛を感じることさえできるのです。この世を観察して神の愛に気がつくのではなく、神の愛を聖書を通して知るときに、この世に働く神の愛にも気がつくようになるのです。いえ、たとえ現実の世界の中に神の愛がはっきりと見えないとしても、それでも、神がわたしたちを愛してくださっているという確信を消し去ることはできないのです。なぜなら、聖書がそう語っているからです。

 初代教会の働き人だったパウロという人は、この人ほどキリストの福音を大胆に伝え、また途方もない困難を経験した人はいません。そのパウロが手紙にしたためた言葉に、こんな言葉があります。

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」

 パウロの答えはこうでした。
 「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 パウロという人は、キリストのゆえに苦しみも迫害も飢えも、ありとあらゆる困難を体験した人でした。しかし、そのパウロが神の愛を知ったとき確信したことは、この神の愛から、わたしたちを引き離す者は何も無いということです。

 「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」。主がわたしたちを愛していてくださっています。たとえわたしたちが弱くても、主はお強いお方ですから、恐れることはありまん。

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