キリストへの時間 2013年10月6日(日)放送 キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

久保浩文(高知教会牧師)

久保浩文(高知教会牧師)

メッセージ: まことの神

 おはようございます。高知教会の久保浩文です。
 あなたは、「秋」という言葉から何を連想されるでしょうか。紅葉の秋、実りの秋、収穫の秋、それとも食欲の秋でしょうか。わたしは、秋というと、木々に鈴なりになっている柿や蜜柑、黄金色に輝く田んぼの稲を思い起こします。

 わたしの故郷では、稲の刈り入れが終わると、あちらこちらの家で、収穫に感謝するための様々な行事が行われ、地区の神社では、収穫感謝の祭りが盛大に催されます。今住んでいます高知市でも、収穫の季節になると、雅楽の太鼓や笙の音色がどこからともなく聞こえてきます。外に出てみると、軽トラックの荷台にいわゆる「御神体」と呼ばれる神輿がのせられていて、それぞれの地域の公園や広場で降ろされます。そこで神官の祝詞、御祓いがなされ、続いて参列者が「今年の豊作、五穀豊穣、家内安全」は、全て神様の御恵みであり、お蔭であるとして拝礼をしている姿が目に入ってきます。

 わたしたちの周囲には、神々と呼ばれるものが数多く存在しています。山も奥深く入りますと、町中とは違う空気と、何かしら神秘的なものを感じる方もおられるでしょう。樹齢何百年という大木には並外れた生命力が宿っているとして、しめ縄が張られたり、祠(ほこら)があったりします。幼いころ、祖父母の家の裏山で山菜採りをしたことがあります。その時、石ころを山のように積み上げたものに目がとまり、「何だろう」と思って、何の気なしに手のひら大の石を手に取ってみました。すると即座に祖母に「そんなことをしたら、山の神様が怒って罰が当たる、元通りに直しておきなさい」と叱られてしまいました。実にわたしたちの周りでは、わたしたちの生活の全てに神の御加護があり、家内安全、合格祈願、安産祈願と、それぞれの目的に応じて祈願をすれば、大願成就できると多くの人々が信じています。

 しかし、聖書によると、人々がそのようにして神々として信じ、信仰、崇拝の対象にしているものは、実は、神ではなく、神によって造られた被造物であるのです。わたしたちは、人間をも含めて、全てのものをお造りになられた創造主なる真の神を神として信じ、崇め、栄光を帰さなければなりません。ですが、わたしたちは、「神であるならば、この願いをかなえてくださるはずである」と、自分に都合の良い神を造り出すのです。ある思想家は神を定義して「神というものは、人間自身の空想的反映であり、現世は涙の谷で苦しいから、人間はこの幻想(世)界に逃避して慰安を求める」と言っていますが、確かにある一面、当を得ています。

 聖書の神は、人間の思想や経験が造り出したものではなく、神の方から主体的にわたしたちに語りかけてくださる活ける人格をもった神なのです。神の永遠の力と神性は被造物に現れているのですが、わたしたちは被造物を通しては、神を神として認め、信じることができないばかりか、「滅び去る人間や鳥や獣や這うもの」を神と称し、信じ崇めているのです。 わたしたちが造り主なる真の神を正しく知り、信じる事ができるために、神はご自分の独り子イエス・キリストをわたしたち人間と同じ様でこの地上に生まれさせられました。わたしたちはイエス・キリストの地上のご生涯を通して、神とは、いかなる御方であるのかを知ることができます。聖書に記されているイエス・キリストと出会うことは、すなわち、神御自身との出会い、神を知ることなのです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」ヨハネによる福音書1章18節。

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