聖書を開こう 2013年5月16日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 熱狂と冷静(使徒19:28-40)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 宗教を嫌いと思う人が挙げる理由の一つに、分別を逸した熱狂さということがあるように思います。特に宗教的な正義を掲げて、暴力にまで訴えるやり方には、ほとんどの人が理解を示しません。
 きょうとりあげる話は、熱狂的な信仰心が大きな暴動にまで発展しそうな出来事です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 19章28節〜40節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。

 前回に引き続き、エフェソで起こった事件を取り上げています。エフェソには豊穣の女神アルテミスを祭った巨大な神殿がありました。この神殿は世界の七不思議とまで言われ、「雲にそびえるエフェソのアルテミス神殿」とさえ表現されているほどです。
 事件のきっかけは前回取り上げたとおり、神殿の模型を造って商売していた銀細工職人の、キリスト教に対する敵意から生じたものでした。それは純粋な信仰心から出たものというよりは、自分たちの商売の利害とも深くかかわっていました。
 ただきっかけはそうでしたが、群衆を動かしたのは、銀細工職人たちの利害ではなく、アルテミス神殿に対する純朴な誇りでした。どこの国の人でもそうだと思いますが、自分たちの誇りとしているもの、特に宗教的な誇りを傷つけられるときには、熱狂的な反応を示すものです。それはそれで理解できる反応です。
 ただ問題は、集まった群衆たちが、パウロの主張をどれほど知っていたか、ということです。「手で造ったものなどは神ではない」というパウロの言葉が独り歩きを始め、このパウロの発言に横たわる信仰的な主張の深みは、ほとんど省みられることは無かったようです。
 銀細工職人たちが意図的に群衆を扇動したかどうかは分かりませんが、少なくとも彼らの狙いは群衆たちによって遂げられそうな勢いでした。宗教的な自尊心を傷つけられた群衆は、口々に「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだし、ついにはパウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえて、一団となって野外劇場になだれ込みました。
 ここに出てくる野外劇場は、その遺構から概算して、ざっと2万5千人は収容できるほどの大きさのものでしたが、文字通りに町中が混乱して、この野外劇場になだれ込んだとすれば、その混乱ぶりがどれほどのものであったのかは、容易に想像できると思います。しかも、使徒言行録によれば、そこに集まった群衆の大多数は、何のために集まったのかさえ分からなかったというのですから、その混乱ぶりがうかがえます。
 このエフェソからパウロがコリントの信徒に宛てた手紙が残っていますが、その第一の手紙の15章32節に「エフェソで野獣と戦った」と記されています。文字通りエフェソで野獣と戦ったとは思えませんから、それはこの群衆による混乱を比ゆ的に表現しているのだろうと言われています。確かに野獣との戦いに例えられるような混乱ぶりだったに違いありません。

 ただ、パウロにとって助けだったのは、アジア州の祭儀をつかさどる高官にパウロに対して好意的な友人がいたので、群衆との衝突を避けさせるために、劇場に入ろうとするパウロの思いを留まらせたということです。この友人の助言が無ければパウロも混乱の渦に巻き込まれていたかもしれません。

 騒ぎは2時間たっても止む様子はなく、ついには町の書記官が登場して、混乱をやっと収拾したということでした。
 この書記官の説得は非常に理にかなったものでした。というのは、エフェソの人々の宗教的な自尊心を決して否定することなく、しかし、彼らの行きすぎを的確に指摘しているからです。
 確かに銀細工職人たちが主張するように、パウロは「手で造ったものなどは神ではない」と言ったのかもしれません。しかし、書記官がなだめて言うとおり、パウロは神殿を荒らしたのでも、アルテミスの女神を冒涜したのでもありませんでした。
 さらに、この書記官の説得の優れている点は、それで騒ぎを終わりにしようと無理強いをしなかったことです。法廷に訴える機会があることを告げて、群衆たちに冷静な判断を求めたからです。

 さて、使徒言行録がこの事件を後世に伝えている意図はどこにあるのでしょうか。ただ単にこの大きな事件の歴史的なな報告を後世に伝えるというだけのことかも知れません。確かに、これから先、どこへ行っても同じような危機に教会が直面することは目に見えて明らかです。そう言う意味で、他の宗教との対立が民衆を巻き込む騒動にも発展する可能性があることを、エフェソでの事件から十分に学びとるべきです。
 しかしまた、このエフェソでの騒動は、クリスチャンではない役人たちの良識がパウロたちを救ったということができます。神はこの世の高官たちを用いて秩序を保ってくださるということをも学ぶ必要があります。
 確かに真の神を知らない為政者たちの横暴ぶりが、聖書にはしばしば描かれます。しかし、すべての為政者が皆横暴なのではありません。良識的な為政者たちを通して正義と公平が実現していることも事実です。これから先、教会が直面する社会との摩擦や混乱に対して、教会は決して孤立無援ではありません。むしろ、神はこの世の為政者に良識を働かせ、社会の秩序を保つようにと導いてくださっているのです。そう言う意味でもまた、教会は、恐れることなく大胆に御言葉を語り続けることができるのです。

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