聖書を開こう 2013年9月5日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: パウロはなぜ訴えられたのか(使徒24:1-9)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 宗教と犯罪という言葉は、普通は結びつくものではありません。むしろ、宗教には犯罪を抑止する効果があると一般的には期待されています。
 ところが、近年、宗教団体による犯罪が増えたせいで、宗教といえば何か胡散臭さをだれもが感じてしまっています。特に洗脳や詐欺まがいの行為、恐喝、果ては国家転覆をもくろむ反社会的な行動と、新興宗教による犯罪行為は、挙げればきりがないくらいです。こうした反社会的な宗教のせいで、人々が本当の意味での宗教心をいだく機会を失ってしまうのは、まことに残念なことです。
 ところで、キリスト教以外の人々が残した文献で、初期キリスト教に関して記録が残っているもの、と言えば、残念ながら、キリスト者に関する公安関係の記録がほとんどだと言われています。支配者や権力者にとって、キリスト教との接点といえば、それくらいの点しかないのかもしれません。
 しかし、だからと言って、近年新聞記事をにぎわせてきた宗教団体による犯罪記事と、権力者たちが初期キリスト教会に関して残した公安関係の文書が同じだと言おうとしているのではありません。むしろ逆で、当時のキリスト教会がいかに誤解され、その誤解のためにどれほどの苦しみをキリスト教会が味わったのか、そのことを覚える必要を感じます。
 きょうこれから取り上げようとしている個所にも、キリスト教会に対する誤解に満ちた訴えがなされています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 24章1節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 5日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロという者を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。

 先週は、ユダヤ人の陰謀によって危く命を落としてしまいそうになったパウロが、千人隊長リシアの気転によって、身柄を保護され、カイサリアにまで護送される様子を学びました。総督フェリクスによって事柄の是非に決着をつけるためでした。

 こうしてパウロは自分を訴え出るユダヤの人々の手から引き離されて、総督の前で裁きを受ける機会を得ました。もちろん、それはパウロ自身がローマの市民権を持っていたので、総督による裁判を受けることは当然の権利でした。しかし、使徒言行録はこのことも含めて、御国の福音が約束されたように広がっていくことを、神の不思議な御計画によるものとして描いています。

 さて、パウロを訴え出る者たちが、エルサレムからカイサリアにまでやってきて、パウロを総督の前に告発します。その一団は大祭司アナニアをはじめ、長老数名と弁護士テルティロという構成でした。弁護士テルティロは、名前から判断すれば外国人であったかもしれませんが、あるいはヘレニストのユダヤ人弁護士であったかもしれません。いずれにしても、ここにやってきた人々はユダヤ最高法院全体を代表する人たちというよりは、パウロに関して意見が分断してしまった最高法院のうち、サドカイ派に属する人たち、つまりパウロに対して敵意を抱いている人たちです。

 テルティロはこれらの人たちを代弁して、パウロを総督フェリクスに犯罪人として告発します。その告発は巧みに構成され、形式的な挨拶とは言え、まずは総督の業績をたたえるところから始まっています。

 「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。」

 実際には、フェリスクが総督の座に就いてから、ユダヤではテロ行為が盛んになり、情勢は不安定になっていました。しかし、戦争が勃発していないという意味では、確かに平和を享受していたというのは真実であったと言えるかもしれません。特にここに訴えを持ってきた人たちは、ローマの力に支えられて権力を維持しているといってもよい人たちですから、ここに言われていることは全くのお世辞ではなく、本心であったかもしれません。

 さて、テルティロは単刀直入に本題に入って、パウロを告発します。その訴えは三重の言葉によって巧みに構成されています。

 まず第一点は、パウロが疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者であるという点です。
 単にどこかで騒ぎを起こした、というのではなく、疫病のようにあちこちで騒ぎを引き起こし、世界中に被害が拡大しているということです。言いかえれば、これを放置すれば、やがてはこの騒ぎがさらに拡大して、手がつけられないほどになるという警告です。総督フェリクスにとって、自分の時代にやっかいな騒ぎが起こることは望まないことです。力で抑えられるうちに、このような騒動は鎮圧しておくべきです。
 テルティロはパウロを告発しながらも、総督の心を巧みに操っているのです。

 第二点は、パウロが「ナザレ人の分派」の主謀者であるという点です。このナザレ人たちの分派がどんな集団であるのかは、何の説明もしません。もちろん、ここに記されていることは、テルティロの言葉を一字一句記したものではないでしょうから、実際には説明があったのかもしれません。しかし、前後に記された告発の言葉から推察すれば、ナザレ人たちによる分派がいかによからぬ分派であることを説いたに違いありません。その主謀者である、というレッテルは、パウロに対する先入観を決定的にするものです。

 すでに学んだように、つい先ごろ4千人の暗殺者を引き連れて荒野へ行ったエジプト人の反乱事件が起こったばかりです(使徒21:38)。都エルサレムではシカリ派の人たちが暗殺行為を繰り返しています。そうしたことを背景に考えるならば、「ナザレ人の分派」の主謀者だ、というレッテルが、どれほどパウロに対する印象を悪くしたことでしょうか。

 最後の第三点は、これがパウロを訴え出たユダヤ人たちにとってはもっとも重要な主張点であるはずですが、最後にとってつけたように言われています。つまり、この男は神殿を汚す冒涜者であると。けれども、彼らはこれをただの自分たちの宗教の問題ではなく、あくまでも政治犯として訴えようとしているのです。

 これは実は、最高法院がイエス・キリストを総督ピラトに訴え出たのと同じ手法です。使徒言行録の著者は、キリストに従う者が背負うべき苦難をここに見たのかもしれません。しかし、またキリストが苦難の後に栄光に入られたように、キリスト者にもキリストの栄光に与る希望があるのです。

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