聖書を開こう 2013年10月31日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 希望の食事(使徒27:27-44)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どんなに真っ暗で長いトンネルでも、必ず出口があることが分かっているので、不安に思うことがありません。ところが、人生のトンネルは、出口がすぐには見えないことが多く不安が募ります。今学んでいるパウロを乗せた船の乗組員たちは、まさにそんな心持だったに違いありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 27章27節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 14日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、20オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、15オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。
 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で14日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で276人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。
 朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。

 クレタ島の「良い港」を出航したパウロたちは、たちまち暴風に巻き込まれ、何日も波風に翻弄され続けたために、誰もが助かる望みを失いかけていました。ただ、パウロだけが、この危機的な状況の中で、主から委ねられた自分の働きを確信して、助かる希望を抱いていました。

 さて、きょうの箇所は、クレタ島を出港してから14日間が過ぎたときのできごとです。かれこれ2週間も海の上を波風のままに漂わざるを得ないパウロたちでした。穏やかな海の上ならまだしも、すでに航海に適した季節もすぎている上に、実際に暴風に巻き込まれての2週間ですから、誰もが心の平静さを失っていたことは容易に想像がつきます。
 あとで分かることですが、この時、船はマルタ島の近くを漂流していました。クレタ島の良い港からの距離は900キロメートル以上も離れています。嵐の中、これだけの距離を2週間も漂うというのは、文字通り生きた心地はしなかったことでしょう。

 ところで、船旅で怖いのは、夜の暗がりのために見通しがきかず、船が座礁してしまうことです。さいわい、船員たちの長年の経験と勘で、真夜中にもかかわらず、陸地が近いことをいち早く察知します。実際、水深を測ってみると徐々に浅瀬に向かって船が進んでいることが分かりました。20オルギアというのは、およそ水深37メートルです。少し進むと9メートル以上も浅くなってくるのですから、このまま船が進んでしまうと浅瀬に乗り上げてしまうことは目に見えています。

 そこで船尾から錨を四つ投げおろし、夜が明けるのを待つことにしました。明るくなってから、航路を確認しながら船を進めるためです。ところが、船員たちは暗がりに乗じて、小舟を投げおろし、自分たちだけが助かろうと企てます。全員が助かる見込みがあるのなら、自分たちだけが脱出しようなどとはしなかったでしょう。言い換えれば、船員たちの判断した状況では、自分たちだけでも逃げられるうちに逃げた方が良いと感じられるほど、事態は危機的な状況だったということです。
 もちろん、客観的にその状況判断が正しかったのかどうかは、全員が助かったという結果から考えれば、間違っていたのかもしれません。しかし、少なくとも、自分たちだけでも逃げ出そうと判断を誤るほど、船員たちでさえ冷静さを失っていたということです。

 その船員たちの行動にいち早く気がついたのはパウロでした。パウロは百人隊長と兵士たちにのっぴきならない事態を告げます。船員たちがいなくなれば、船に取り残された者たちはどうすることもできなくなってしまうからです。あわてた兵士たちは綱をたち切って小舟を流してしまいます。しかし、これでは船員たちを船にとどまらせることはできても、何かのときに船から安全に脱出する手段も失う結果となってしまいます。あとから出てくるように、実際に船が座礁してしまったときに、小舟を失ってしまったことは痛手となります。しかし、この時はそうするよりほかはありませんでした。

 14日間も食べずに漂流していたのですから、体力の衰えはもちろんのこと、冷静な判断力さえも衰えていたとしても当然です。ところが、そういう中にあっても、パウロはまるでこの船の船長のように冷静な判断で、みんなに食事をとるように勧めます。陸地が近づいた今、何とかして上陸して生き延びていくためには、今このときに、体力を養う食事が必要であるのは言うまでもありません。しかし、パウロの勧めは、そうした論理的な判断に基づくだけではありませんでした。その背後には、神の御心でなければ、頭から髪の毛一本もなくなることはないという、神への絶対の信頼があったからです。神が必ず全員を生きながらえさせてくださるという確信があればこそ、希望をもって食事を勧めることができたのです。

 パウロは人に食事を勧めるだけではありません。まず自分が率先して感謝の祈りをささげ、パンを裂いて食べ始めました。言いだしたパウロが食べないのであれば、いったい誰がその人の勧めに従うでしょうか。危機的な状況の中で食事をとるパウロの冷静さの中に、それを支える神への信頼の深さを思います。こうしたパウロの姿を目にしたからこそ人々は元気づけられて、自分たちも食事をとることができたのです。信仰に満ちたパウロの言葉と行いが人々に生きる希望を与えたと言ってもよいでしょう。
 この物語では、船の操縦は船員たちの腕にかかっていますが、しかし、船にいた276人の信頼は、神への信仰に立つパウロに注がれていたといっても言い過ぎではありません。

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