聖書を開こう 2013年12月5日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 命であり光であるキリスト(ヨハネ1:4-9)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の学びにしろ、聖書から引き出された神学や教理の学びにしろ、それらがわたしと何の関係もない学びであるとしたら、これほど意味のない学びはありません。単に知的な好奇心を満足させたいだけで聖書を読むのであれば、それは聖書が書かれた意図から大きく離れているように思います。
 多くの人にとっては、聖書は自分との接点があまりない遠い書物であるように思われがちです。そのように思われているがために、積極的に手にとって読まれる機会も少ないのでしょう。
 ヨハネによる福音書も、その書き出しは、一見遥か遠く隔たった所においでになるキリストを紹介しているように感じられます。キリストが天地創造よりも前、永遠の昔から存在する神だと言われても、あまりにも深遠すぎて捕らえ尽くすことができません。しかし、ヨハネ福音書はこのお方を、決して人間の理解を超越したお方として紹介しようとしているのではありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 1章4節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

 前回は「言」(ロゴス)として紹介されたイエス・キリストについて取り上げました。神の言葉であるイエス・キリストは、天地が造られる前から父なる神と共にあり、神そのお方に他ならない存在として紹介されました。万物との関係で言えば、このお方によって万物はあらしめられたのでした。

 父なる神との関係、万物との関係を述べた後で、ヨハネ福音書はロゴスであるイエス・キリストと人間との関係を述べます。

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

 「命」という言葉は、このヨハネ福音書ではキーワードとなってたびたび登場します。この福音書の終わりの方に、ヨハネがこの福音書を書いた目的を記している個所があります。20章31節にこう記しています。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 神の子キリストであるイエスを信じて、その名によって命を得ること、これがヨハネ福音書が読者に願っていることです。ヨハネはその福音書の冒頭で命がロゴスであるキリストの内にあることをまず語ります。このキリストを他にして、誰も命を与えることはできないからです。こうして御子イエス・キリストと命との関係は、この福音書の中で一つのテーマとして、これ以降何度も繰り返し登場します。
 この福音の中で最も有名な言葉として知られている3章16節では御子イエスと命との関係をこう述べています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 ここでもまた、御子イエス・キリストと命とは関連付けられています。しかも、ここでわかる通り、「命」というのは、ただ呼吸があって、心臓が動いているという動物的な生命のことではありません。ヨハネ福音書が言う命とは、永遠の命と呼ばれる命のことです。では永遠の命とは何か、これ自体大変大きなテーマですので、その言葉が出てきたときに、あらためて取り上げたいと思います。ただ、ここでは、ロゴスである御子イエス・キリストの内に永遠の命があること、そのことがヨハネ福音書の伝えたい重要なメッセージであることを指摘するにとどめておきます。

 さて、ヨハネ福音書はロゴスであるイエス・キリストのうちに命があることを述べた後で、たたみかけるように「命は人間を照らす光であった」と述べます。

 「光」という言葉も、この福音書の中で繰り返し登場するキーワードです。実際、新約聖書に登場する「光」という単語の三分の一近くはこの福音書に登場します。もちろん、この場合の光というのは、文字通りの光ではありません。罪が支配する世界を「闇」というのに対して、そこからの解放の希望を光に例えているのです。後に出てきますが、イエス・キリストご自身、ご自分を指して「わたしは世の光である」とおしゃっています(8:12、9:5)。キリストのうちにある永遠の命が、罪と死の支配という暗闇からわたしたちを解放してくださる光なのです。

 「光は暗闇の中で輝いている。」

 ここへ来て、ヨハネ福音書は突然現在形の表現を使います。ここに至るまでは、ずっと過去形で、「〜であった」と語ってきました。しかし、ここでは「光は暗闇の中で輝いていた」とは言わないで、「光は暗闇の中で輝いている」と述べています。読者の心を過去から現在へと向けさせているのです。

 ヨハネの福音書にとって、世の光であるキリストは、決して過去の時代の救い主なのではありません。ヨハネ福音書は過去の出来事を語っているようでありながら、救いの現実へとわたしたちの心を向けさせています。光は今も救いを必要としている者たちのために輝き続けているのです。ヨハネがこの福音書を書いている時点でそうでした。しかし、この福音書が読まれている今もそうです。ただ残念なことに、暗闇は光を理解しなかったのです。
 ここで「理解しなかった」と翻訳されている言葉は、「勝たなかった」とも訳すことができる言葉です。ヨハネ福音書がどちらの意味でこの言葉を使っているのか、判断することが難しい個所です。罪が支配する暗闇の世界が、光であるキリストを理解しなかったというのも事実です。そして、同時に罪の支配する暗闇が光であるキリストを打ち負かすことができなかったというのも事実です。暗闇が光を打ち負かすことができなかったからこそ、光は今なお輝いているとも言えるのです。

 さて、ヨハネによる福音書はここで洗礼者ヨハネの活動に触れます。

 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た」

 実はヨハネによる福音書の中には、他の福音書とは違って、「洗礼者ヨハネ」という言葉は使われません。この福音書の中では、ヨハネの働きは洗礼を授けることよりも、まことの光であるキリストを証しすることが中心なのです。ヨハネ自身は光ではありません。まことの光であるキリストを証しするために神から遣わされてきた人物です。ヨハネの活動は証しの対象である光がきたときに過去のものとなってしまいました。しかし、ヨハネが証ししたキリストは、今なお罪の支配に苦しむすべての人を照らす光なのです。

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