ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
学生時代に「奇跡」というタイトルの北欧映画を見たことがあります。カール・ドライヤー監督の作品で、1955年に制作された白黒映画です。復活に対する素朴な信仰を描いた作品でした。詳しいストーリーは忘れてしまいましたが、信仰的に懐疑的なボーゲン一家に巻き起こった事件を淡々と描いた作品でした。農夫のボーゲンには三人の息子がいました。その一人は牧師になることを目指していましたが、夜な夜な家を抜け出しては風に説教したり、自分が復活のキリストだなどと言っては、奇妙な行動をとっていました。このボーゲン家の別な息子と結婚したインガーは信仰熱心な人でしたが、早産のために命をなくしてしまったのです。悲しみの中にあるボーゲンたちに対し、牧師を目指していたさっきの息子が、復活を信じるようにと力説し、亡くなったインガーが生き返るというお話です。
こんな風に書いてしまうと、特別に面白い映画とも思えないかもしれませんが、変に技巧的なところがないだけに、復活に対する素朴な信仰を考えさせられる映画でした。わたしとしては、信仰的な疑いに閉ざされているボーゲン一家が、復活信仰への確信へと変えられていく様子や、クライマックスでインガーが生き返る場面がとても印象に残りました。
ところが、この映画の感想をクリスチャンの友人に話したところ、実際に死人がよみがえる場面でクライマックスを迎えるなんてナンセンスだと言われてしまいました。確かに、わたしたちが生きている現実の世界では、愛する人を失った悲しみの中にあっても、なお、その失った最愛の人を取り戻すことはできません。その友人によれば、死者が実際に生き返らなくても、なお、復活の信仰を持ちつづけるところにこそ、キリスト教の復活信仰の偉大さがあるのだということでした。
確かにその友人の言い分にも一理ありますが、最後に死者を生き返らせてしまう非日常的な場面でクライマックスを迎えさせた映画の構成に、わたしは逆に新鮮さと素朴さを感じたのでした。そして、その場面を見ながら、新約聖書にしるされたラザロの復活のことを思い起こしました。
さて、きょうは、そのラザロの復活が記されている個所から、ご一緒に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 11章38節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエス・キリストは亡くなったラザロの亡骸が収められている墓にやって来て、墓をふさいでいる石をどけるようにとお命じになりました。そのキリストのお言葉に対して、ラザロの姉妹マルタが、すかさず、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えて、イエス・キリストの求めを断ります。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた