聖書を開こう 2015年2月5日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 頑なな人間の心(ヨハネ12:37-43)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人がキリスト教を信じるというのは本当に不思議な事だと思います。前にお話したことがあると思いますが、誰かがキリスト教を信じる決心をしたというときに思うことは、それがこちらの伝道熱心さとか、相手の生活体験とか、そういうことだけでは、人がキリスト教に入信するに至った不思議さを説明しきれないということです。それは言い古された言い方かもしれませんが、神の不思議なお導きによるとしか言いようがない出来事です。

 逆にキリスト教を信じる事が出来ないと言うのは、もっと説明のしにくい事柄だと思います。まだこちらが何も話し出す前から、ぴしゃりと心の扉を閉ざしてしまう人もいます。心の扉ではなくて、ほんとうに門前払いを食らったという経験をわたしは何度かしたこともあります。どうしてそんなにキリスト教のことが嫌いなんだろう、そういう思いになります。

 しかしまた、キリスト教のことを良く知っていて、その教えに心から感動を覚えながらも、それでもキリスト教を信じるところまでは行かないで、結局はキリスト教から離れていってしまう人もいます。

 この、キリストを信じる事が出来ない人がいると言う謎は、きょうこれからお読みしようとしている聖書の個所にも出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 12章37節〜43節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
 「神は彼らの目を見えなくし、
 その心をかたくなにされた。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 心で悟らず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」
 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 初代のキリスト教会の人たちにとって、その時代のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じることができないというのは、とても不思議な事だったと思います。自分たちの信じていた聖書に約束された救い主メシアが現れたのですから、みんなが喜んでこの救い主を迎えて当然のはずでした。
 ところが、実際はどうかといえば、キリストを拒む人たちも出てきたわけです。拒むというどころか、殺してしまおうとさえ思うほどに、遣わされてきた救い主に対して憎しみを覚えていたというのです。なぜ、まことの救い主であるイエスを、ユダヤ人たちは拒絶してしまったのでしょう。初代のキリスト教会にとって、それは大問題であったと思います。

 実は、この問題はヨハネ福音書だけが直面していた問題ではありませんでした。新約聖書の中には、このユダヤ人の不信仰の問題が他の個所でも扱われています。個所だけをあげると、ローマの信徒への手紙の9章から11章にかけて、それから、使徒言行録の一番おしまい、28章23節以下です。
 さらに、この問題と関連していると思いますが、マルコによる福音書の4章10節以下とその並行記事も加えることが出来ると思います。つまり、それだけ初代の教会の人々にとっては、この問題が重要であったということができると思います。

 さらに面白いことには、この問題を扱っている新約聖書のそれぞれの個所には、決まって旧約聖書の預言書、イザヤ書からの引用が出てきます。今日のヨハネの個所で言えば、12章38節と40節がそうです。それぞれイザヤ書53章1節とイザヤ書6章10節からの引用です。このイザヤ書からの引用でユダヤ人の不信仰を捉えようとする考え方は、つまり、初代キリスト教会の共通したものの見方といったらよいのだと思います。

 さて、イザヤ書53章というのは、苦難の僕であるメシアを預言した有名な個所です。遣わされるメシアが受ける苦しみがあまりにも、人々の期待するメシアのイメージと異なっているので、誰がそんなメシアの預言を信じることが出来るだろうかと書かれている個所です。

 つまり、ユダヤ人たちがイエスを信じることが出来なかったのは、イエスが偽メシアであったからではなく、むしろ、預言者イザヤが預言したとおりの苦難の僕であったからだというのが初代教会の共通した認識だったのです。

 もう一つの引用個所、イザヤ書の6章10節では、神ご自身がユダヤ人の心をかたくなにして、神の言葉を受けいれなくさせてしまったと語られています。

 ちょっと見ると、何だか信じることの出来ないユダヤ人たちの存在は、神によって定められた宿命のような印象を受けてしまうかもしれません。

 ここで、預言者イザヤが取り上げている問題は、旧約聖書のほかの個所にも見られるイスラエルの心のかたくなさの問題です。神の御業を目の当たりにしながらも、それでも神に従って行かない罪深い頑固な民族として、旧約聖書の中に描かれています。

 信じたいのに神が意地悪をして信じることができないようにさせているのではありません。自分で信じないということを選び取っているのです。厳しい言い方ですが、そのような頑固な生き方に対して、神は深いお考えをもって、彼らの好き勝手な振る舞いにまかせるがままにしておいたというのです。ヨハネの言葉で言えば、そんな頑固で勝手な振る舞い自体が、人間の罪深さに対する神の厳しい裁きであるということになるのでしょう。ヨハネの12章はイエスの地上での伝道の働きをまとめた結びの個所です。そんな結びの個所がユダヤ人の不信仰で話が終わるのは、何とも悲しいことです。しかし、ここにこそ、キリストの十字架によってしか解決できない、人間の罪深さが鋭く描かれているのです。救いの歴史とは、好き勝手に生きる人間の頑固で罪深い生き方に対して、神の救いの御業が確実に打ち勝って行く姿だということが出来るのです。

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