聖書を開こう 2015年4月9日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神と出会う道、キリスト(ヨハネ14:8-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神がいるなら見せてほしい。…こういう願いを時々耳にすることがあります。それは純粋な気持ちからそう願うこともあれば、どうせ見えるわけがない、という投げやりな気持ちで言う場合もあります。

 残念ながら、わたし自身には神の姿を直接見たという経験はありません。あるいは誰もが神の存在を信じざるを得ないような、特別なしるしを目撃したという経験もありません。これは、わたしだけがそうだというのではなく、きっと聖書の神を信じているクリスチャンのほとんどは、神を直接見たという経験はないだろうと思います。けれども、それにもかかわらず、神の存在を身近に感じて、あたかも神を見たかのように、信じています。もっと正確に言えば、肉の目には見えない神を、心の目で見ているということなのだと思います。

 さて、今日の聖書の個所には、弟子の一人が「わたしたちに御父をお示しください」とイエス・キリストに求めています。果たして、キリストは何とお答えになったのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 14章8節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 弟子のフィリポが「わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と願ったのは、イエス・キリストが「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」とおっしゃったからでした。フィリポの発言は、「既に父を見ている」という主イエスの言葉に反応して出てきた発言です。フィリポはイエス・キリストの言葉を文字通りに受け取って、「実際に父なる神を既に見ている」とキリストがおっしゃったのだと理解したのでしょうか。そうだとすれば、その言葉は、フィリポを不安にしたに違いありません。主イエスの言葉とは裏腹に、少なくともフィリポ自身には父なる神を見ているという実感がなかったのでしょう。それで、「御父をお示しください。そうすれば満足できます」とフィリポは願いました。

 しかし、別な見方もできます。そもそもユダヤ人は幼いときから神について教えられてきました。その弟子たちが、神を知るということについて、肉の目で神が見えると誤解をするとは、ちょっと考えられません。ユダヤ人であれば、誰でも小さいときから聖書を読み聞かされて、聖書を通して神を知っていたはずです。そして、肉である人間が直接神を見ることができないということも分かっていて当然です。その弟子たちが、いまさら父なる神を見せて欲しいと願うとは、少しおかしな話です。

 もし、フィリポの願いが、肉の目で見たいという願いではなく、比喩的な意味で見たい、知りたい、ということだとすれば、その願いは、それほど的外れな願いではないかもしれません。

 けれども、そうだとしても、どうしてそんなことを今更ながらに願ったのでしょうか。いったい今までのフィリポの持っていた信仰とは何だったのでしょう。心の目で神を見ているという確信が持てなかったということでしょうか。ユダヤ人として生まれ育ってきた弟子たち、小さいときから神について知らされてきた弟子たち、さらにイエス・キリストと生活を共にするようになった弟子たちが、今更ながらに「父をお示しください。そうすれば満足します」と言わざるを得ないほどの信仰だったとは、情けない話です。

 そこで、イエス・キリストご自身もおっしゃいます。

 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」

 イエス・キリストのこの発言はあきれ返ったような響きを持つ言葉ですが、しかし、それが弟子たちの信仰の現状だったと言ってもよいのだと思います。それは、弟子たちばかりではなく、イエス・キリストを知らないユダヤ人全体にも言えることであったと思います。イエス・キリストは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とおっしゃいました。キリストと出会わない人は、父なる神との出会いがない、不安で、不満足な信仰がいつも付きまとうのです。父なる神を見たと確信できない弟子たちは、まだ本当の意味でキリストとの出会いをものにしていなかったといえるでしょう。

 けれども、確かにあの最後の晩餐の時には、「父を見た」と言えるほどにイエス・キリストを知らなかった弟子たちも、この福音書が書物になったときには、イエス・キリストのお言葉の意味をはっきりと理解していました。このヨハネ福音書の序文とも言うべき1章の出だしのところで、福音書の記者はこう言っています。

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

 そうです。この、父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストを通して父である神を見た、と証ししているのです。

 この福音書がすべての人に語り聞かせたい喜びの知らせは、まさにこの点にあります。「キリストを通してわたしたちは父なる神を知ることが出来た!」…そういう思いがこの福音書にはこめられているのです。最後の晩餐の席上では、イエス・キリストのおっしゃることの意味が飲み込めなかった弟子たちでしたが、すべてのことが起こったときに、イエス・キリストを通して恵みを注いでくださる神の愛に、弟子たちは目覚めることが出来たのです。ヨハネ福音書は、わたしたち一人一人に、このキリストのもとへ来て、神の愛を受けとるようにとわたしたちを招いています。イエス・キリストを見るときにこそ、わたしたちを愛してくださる父なる神の存在をはっきりと知ることが出来るようになるのです。

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