聖書を開こう 2015年12月31日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 試練と誘惑(ヤコブ1:12-18)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本には「触らぬ神に祟りなし」という言葉があります。関わりさえしなければ、余計な災いに巻き込まれない、という意味で使う表現です。ここには「神」に対するある種の意識が表れています。それは、日本人にとっての「神」とは、祟るような恐ろしい存在であるということです。「荒ぶる神」という表現が、まさにそれを言い表しています。
 語源の本で読んだことがありますが、動物の「狼」の「かみ」と神仏の「かみ」とは同じ語源だそうです。どちらも人間にとって災いをもたらす恐ろしい存在だということです。神に対する日本人のこの感覚は、多かれ少なかれ、今もあるように思います。
 旧約聖書に登場する怒る神の姿は、しばしば、日本的な「荒ぶる神」と誤解されがちです。そのように聖書の神を理解してしまうと、神の愛や神の善意を確信することが難しくなってしまいます。きょうの箇所にも、神の善意を疑う信仰の問題が指摘されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 1章12節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

 きょうの箇所には「試練」という言葉と「誘惑」という言葉が出てきます。日本語の「試練」という言葉には、悪いニュアンスがありません。むしろ、試練によって信仰や決心の固さが明らかにされるという意味で、試練にあった当座は苦しくても、それに打ち勝つことができれば、賞賛されるべきことです。

 他方、「誘惑」という言葉には、悪いイメージが付きまとっています。もちろん、誘惑に打ち勝つことができれば、それは賞賛に値すべきことです。しかし、人を惑わしてよいことをさせることは、誘惑とは言いません。誘惑という言葉は、悪へと誘うときにしか使いません。そういう意味で、「誘惑」という言葉には悪いイメージが常に含まれています。

 ところが、この手紙が書かれているギリシア語では、「試練」と「誘惑」という言葉が、単語として区別されているわけではありません。どちらも、「試みる」「試す」「テストする」という意味の同じ言葉です。もちろん、単語としての区別はありませんが、同じ単語を使いながらも、ヤコブの言おうとしている内容には区別があることは明らかです。

 試練それ自体は、道徳的に悪いものを含んでいません。空腹も貧困も、その状態に陥ったとき、苦しい思いをすることはあっても、それ自体は悪ではありません。しかし、もし、その苦しみが原因で、神を疑い始めたり、信仰を捨てようとしたり、あるいは、盗みを働くようにと心がそそのかされたとすれば、それは立派な誘惑です。ヤコブは同じ単語の中にある二つの意味を上手に区別し説明しています。問題は、そのことに気がつかずに神を疑い始めることです。

 ヤコブがここで何よりも強調していることは、試練を忍耐し、克服することの幸いです。その幸いの大きさを、ヤコブは、神を愛する人に与えられる「命の冠」で表現しています。言うまでもなく、神の願いは、神を愛する者たちが皆、命の冠を手に入れることです。そのために救われたのですから、そう願うのは当然です。

 しかし、注意していないと、あっという間に人は誘惑に陥ってしまいます。ヤコブはその危険を指摘しています。ヤコブはこう言っています。

 「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。」

 先ほどもいいましたが、ここは「試練に遭うとき」とも「誘惑に遭うとき」とも訳せます。最初から悪に誘われるのであれば、まぎれもない誘惑です。しかし、信仰者が直面するのは、いつも典型的な悪への誘いとは限りません。まさに初めは試練として襲ってくるものが、いつしか悪への誘いと転じてしまいます。

 試練の中で、悪へと誘う力を感じるときに、つまり、誘惑の力を感じるときに、その原因を神にある、とすれば、責任を神に転嫁することができるかもしれません。

 ヤコブがここで言っている「だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません」とは、中立的な意味で、「神から試練を受けている」と発言することが禁じられているのではありません。そうではなく、神がお許しになった試練を、あたかも神が誘惑していると取り違えることを戒めているのです。

 神はご自身、悪に誘われるようなお方でもなければ、進んで人を悪に誘うお方でもありません。神をそのようなお方であると思うこと自体が、神に対するその人の信仰の未熟さを現しています。

 では、なぜ、神の試練が誘惑へと変わってしまうのでしょうか。ヤコブは、その原因が神にあるのではなく、人の側にあると指摘します。

 「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」

 悪の原因を神に帰すること、そのことが人間の心を自分の問題からそらし、問題を摩り替えてしまうのです。しかし、どんなに問題を摩り替えようとも、人間の心のうちにある欲望を消し去ることはできません。神が人を誘惑しているのではなく、人の欲望が頭をもたげるときに、人はそれをコントロールすることができず、欲望どおりに生きているだけのことなのです。

 ヤコブは人間の弱さを指摘しますが、しかし、それ以上に慈愛に満ちた神へと読者の目を向けさせます。

 「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」

 試練に遭うとき、神の愛を疑うのではなく、むしろ神の徹底した慈愛と善意こそ信頼すべきなのです。誘惑に勝つことは、人間には難しいことです。しかし、私たちを信仰へと召してくださった神が、わたしたちに試練を乗り越えさせてくださいます。

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