聖書を開こう 2016年3月31日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 隣人を裁く愚かさ(ヤコブ4:11-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「悪口を言うなどということは、人としてあるまじきこと」というのが、だれもが抱いている感覚です。しかし、悪口と言っても、露骨な悪口を口にする人はそう多くはないかもしれません。子ども同士の喧嘩ならいざ知らず、大人同士で露骨な悪口を言う人は、よほどの大人げない人です。しかし、大人の世界に悪口がないというわけではありません。何か語っている内容に特定人物への悪意を感じたり、その人物の評価を下げるような意図をそこに感じたりする会話を耳にすることが、大人の世界にはよくあることです。悪口とは、そういう陰湿なものなのだと思います。

 さて、きょう取り上げる個所にも「悪口」についての教えが出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 4章11節と12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。

 きょうの個所には「悪口」の問題が出てきます。ここで「悪口を言う」と翻訳されている言葉のもともとのニュアンスは、「相手に反することを語る」というのが、その意味です。「中傷する」とか「そしる」とも翻訳することができます。

 特にここでヤコブの念頭にあるのは、同じ主にある兄弟姉妹の間での「悪口」の言い合いです。もちろん、仲間の外にいる人たちに対して、悪口を言うことは許容の範囲だという意味ではありません。この世でさえ悪口を言うことは憚られるのであれば、なおのこと、主にある者同士が悪口を言い合うことは恥ずべきことです。

 では、なぜ悪口を慎むように、ヤコブは命じているのでしょうか。その論理はとてもユニークです。

 ヤコブはこう述べます。

 「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。」

 兄弟に対する悪口は、まず兄弟を裁くことと同列に置かれています。裁きというものは、本来ならば客観的、中立的なものです。それ自体が悪いということはありません。しかし、人間の裁きや評価は、しばしば主観が入り込み、裁いている本人の利害が入り込みやすいものです。悪口には、しばしばそうした主観的な裁きや評価が先行しています。相手を正しく評価できなければ、その人を受け入れることは難しくなります。受け入れることができなければ、受け入れることができない理由を相手の欠点や弱点のせいにして、自分を正当化し始めます。こうして自分を正当化するためには、当然、相手の評価を下げる作業が始まります。そうして、相手に対する悪口が口をついて出るようになるのです。

 「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者」の根っこは共通しています。相手を正しく見ることができないことから、悪口が口をついて出てくるのです。

 さらにヤコブは、このような行いは、「律法の悪口を言い、律法を裁くこと」と同じだと語ります。どうして、兄弟の悪口を言うことが、律法の悪口を言うことにつながり、兄弟を裁くことが、律法を裁くことにつながるのか、この論理は一見明白ではありません。

 おそらくヤコブの頭の中には、こういうことがあるのでしょう。

 兄弟への悪口や兄弟を不当に裁くことが、律法に反することであることは、聖書の教えから明らかです。しかし、それにもかかわらず、それらの行いを改めることなく、平然としているとするならば、それは律法を否定することです。否定するばかりか、自分のそのような行いを悪とする律法こそが間違っているといわんばかりです。そのように律法を悪しく言い、律法の評価を貶めるとするならば、まさに「律法の悪口を言い、律法を裁くこと」に繋がってきます。

 ヤコブは、兄弟の悪口を言ったり、兄弟を裁くこと自体が正しくないというばかりではなく、そのような行いを放置していることが、律法を悪く言い、律法を断罪していることにつながると警告しているのです。

 さらに、ヤコブは、兄弟の悪口を語り、兄弟を裁く者たちの本質にあるものを見事に描いてこう言います。

 「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」

 そもそも、兄弟の悪口を言うこと自体が、兄弟を見下している態度の表れです。そして、兄弟を見下す者は、それを禁じる律法をも見下す者です。そして、さらには、その兄弟をお造りになり、その兄弟を救いへと招き入れてくださった神を否定し、律法をお定めになった神を拒絶することに繋がっていくのです。

 たかが兄弟への悪口と思うところに落とし穴があります。その高慢さこそが、神をも自分の下にしてしまう危険をはらんでいるのです。逆に言うならば、兄弟の良いところを見出し、それを正しく評価することなしには、ほんとうに神を愛しているとは言えないのです。隣人への愛と神への愛は、決して切り離されてはならないのです。

 ヤコブは言います。

 「隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」

 神への畏れがなければ、隣人への敬愛も生まれません。律法を定め裁きを行い、救うことも滅ぼすこともおできになる、唯一の神を畏れ敬い、このお方の前にへりくだることのできる人こそが、隣人に対して、謙遜になってその人を評価し、受け入れ、神の御前に共に歩むことのできる人です。ヤコブは主にあって救われ、主にあって兄弟姉妹とされたすべての人たちに、そのように生きることを望んでいます。

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