聖書を開こう 2016年6月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 父なる神を畏れる生活(1ペトロ1:17-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「何を信じるべきか」ということと「どう生きるべきか」ということは、信仰生活を送るうえで、どちらも大切なことです。例えて言うなら、車の両輪と同じです。片方だけのタイヤでは走ることができません。

 しかし、実際には、どちらに重きが置かれているのかは、クリスチャン一人ひとりによって違っているように思います。わたしが所属している日本キリスト改革派教会は70年前に創立されたときに創立の宣言を出しましたが、そのとき、教会の一致には、何を信じているのかの一致と、そして、どのように善い業に生きるのかの一致が大切であることを高らかに宣言しました。

 しかし、実際には、教派としても個々の牧師たちの関心としても、より多くの時間を「何を信じているのか」という部分に費やしてきたように思います。もちろん、事柄の性質上、何を信じているのかが先に定まらない以上、それに基づいた善き生活は送れないというのは道理です。しかし、「何を信じているのか」という信仰の内容にばかり関心が偏ってしまっては、教会としても、信仰者個人としても、信仰の道をまっすぐに進むことはできません。

 きょうの聖書の個所も、キリストを信じるわたしたちが、どう生きるべきなのか、そのことを取り上げています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 1章17節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

 前回から取り上げている、ペトロの手紙一の1章13節から25節には、具体的な信仰生活に関わる勧めの言葉が記されています。そこには四つの命令形で記された勧めが記されていますが、その四つとは、13節「恵みを待ち望みなさい」。15節「聖なる者となりなさい」。それからきょう取り上げる17節「畏れて生活しなさい」。それから来週取り上げる予定の22節「清い心で深く愛し合いなさい」という兄弟愛についての勧めです。

 前回はそのうちの二つ、「恵みを待ち望みなさい」ということと「聖なる者となりなさい」ということを取り上げました。その際に、その二つをそれぞれに独立した命令とは理解しないで、一連の勧めと理解しました。つまり、終末へと向かうクリスチャンに求められる信仰の姿勢として、まず恵みをひたすら待ち望む姿勢が取り上げられ、その待ち望む姿勢の具体的なあり方として、未信者であった過去の生活に逆戻りせずに、清さを求める生き方が命じられている勧めであると理解しました。

 今回取り上げる三つ目の命令も、先の二つとは独立した新しい命令ではありません。前回、特に解説はしませんでしたが、「聖なる者となりなさい」という勧めの言葉に先立って、「従順な子どものように」という言葉が記されています。新共同訳聖書では「従順な子となり」と意訳していますが、直訳では「従順な子供のように、…欲望に引きずられることなく、…生活のすべての面で聖なる者となりなさい」となります。

 きょう取り上げる命令の背景にも、父と子という親子のイメージが継続しています。前回は従順な子どものように、父なる神様のきよさを倣う者となることが求められていました。それに対して、今回は公平に裁かれる神を「父」と呼びかけている子どもに相応しく、その父親を畏れ敬う姿勢が求められています。そして、このこともまた、終末へと向かうクリスチャンに求められる信仰の姿勢として大切な点です。

 そして、ここには、地上での生活がクリスチャンにとっては仮住まいであるという考えが前面に出ています。これは1章1節にも出てきた考えです。この仮住まいに過ぎない地上での期間も、父なる神を畏れ敬う生き方が求められています。一般的には「郷に入りては、郷に従え」というのが知恵のある生き方かもしれません。しかし、聖書は仮住まいの地上での生活を、この世的なルールや様式に身を任せて生きよ、とは言いません。神の子とされた今は、なおのこと、公平な審判者である神を父として畏れ敬う者にふさわしい姿勢でこの世を生きることが求められています。

 ところで17節から21節までは一つの文章で、その中心点は、先ほども述べたとおり、公平に裁かれる神を「父」と呼びかけている子どもに相応しく、その父である神を畏れよ、というものです。この17節から間を飛ばして22節につなげても、言いたい重要なポイントは十分に伝わります。しかし、17節から21節までには、その勧めの言葉に付随して、様々な重要な表現をペトロは登場させています。

 まず、永遠の命へとつながる生活のスタートが、贖いによるものである、という点です。しかも、金や銀といったものではなく、キリストの尊い血によって贖われたという点をペトロは強調しています。この地上にある間も、そのことを意識して生きる大切さをペトロは読者に思い出させています。

 イエス・キリストがご自身の血を身代金として差し出してくださったがゆえに、永遠の命に生きることができるようになったのですから、キリストを離れて、この地上での生活を暮すことはできません。わたしたちは生きるにも死ぬにも、そして、来るべき世においても、キリストのものなのです。

 そして、このキリストについての説明が、さらに20節に続きます。それはキリストが天地の造られる前から存在していたという事実です。今の時代になってキリストが突然生まれたというのではありません。永遠者であられるキリストが、ご計画に従って、今の時代に現れ、十字架の贖いの御業を成し遂げられたということです。しかも、それはこの時代を生きる「あなたがたのためだ」ということをペトロは強調しています。このことは、12節ですでに述べたとおりです。

 さらに21節では、このキリストを通して神を知るようになった事実を指摘します。ここでも、キリストとわたしたち信じる者の結びつきが示されています。キリストを離れては、神を正しく知ることはできません。

 キリストを通して贖われ、キリストを通して神というお方を正しく知ることができるようになったのですから、審判者である神を父として畏れ敬うとは、このキリストを通してのみ、正しく行うことができるのです。

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