聖書を開こう 2016年6月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 兄弟愛に生きる(1ペトロ1:22-25)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 フィラデルフィア管弦楽団といえばアメリカの五大オーケストラの一つと言われ、日本にもたくさんのファンがいます。ペンシルベニア州のフィラデルフィアに創設されたのでフィラデルフィア管弦楽団と呼ばれています。

 ところで、フィラデルフィアというのは、ギリシア語の「兄弟愛」を意味する言葉で、17世紀に、クエーカー教徒であったウィリアム・ペンたちが居住区を建てたのが始まりです。

 きょう取り上げようとしている個所には、この「兄弟愛」についての勧めが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 1章22節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 1章18節以下に四つの勧めが記されていますが、きょうは四つ目の勧めを取り上げます。それは「清い心で深く愛し合いなさい」という勧めです。

 前回も言いましたが、これらの四つの勧めの背後には、救いの完成へと向かう「途上の信仰者」という意識が流れています。この地上での生活は仮住まいに過ぎず、天にこそ受け継ぐべき財産があり、終わりのときに現れるキリストを待ち望みながら、地上での暮らしを過ごす者たちです。救いの完成までの期間、キリストを信じる者としてどう生きるのか、それが四つの勧めで表現されています。

 きょう取り上げる四つ目の勧めは、兄弟愛に関わる勧めです。

 クリスチャンは皆、キリストを通して神を父に持つ兄弟姉妹です。同じ神を信じる「信仰の共同体」という意味では、確かに旧約聖書の時代にも共同体に対する同胞意識は強くありました。しかし、それは民族の枠を決して大きく超えるものではありませんでした。それに対して、キリスト教会の兄弟愛は、早い時期から民族の枠を超えて、異邦人をも含めた兄弟愛を視野に入れたものでした。

 ペトロは兄弟愛を勧めるときに、ただ単に兄弟を「清い心で深く愛し合いなさい」とひとこと言うにとどまりません。清い心で深く愛し合うようにと、そうされているクリスチャンの姿をまず描きます。

 「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」

 この22節の冒頭の部分は、「魂を清めていただいたのですから」というのが中心の言葉です。つまり、魂を清めていただいたのですから、清い心で愛し合いなさい、とつながります。

 では、どのように魂が清められたのかというと、真理に対して従順であることによってです。新共同訳聖書では「真理を受け入れて」と訳されていますが、真理に対して従順であるということは、真理を受け入れ、それに従うことです。真理である神の言葉に従順に聞き入り、それに従うことこそ、わたしたちをあらゆる汚れから遠ざける道です。

 ペトロは、そうして真理に対して従順になって清められた魂の向かうところは、偽りのない心からの兄弟愛であると述べています。ペトロが言う真理への従順は、決して抽象的で、概念的なものではありません。それは兄弟愛へと実を結ぶような真理への従順です。

 そして、そのように真理に従順であることによって、偽りのない兄弟愛へと向かって清められているのですから、「清い心で深く愛し合いなさい」という勧めが当然の結論としてここで導き出されています。

 こう勧めるペトロに対して、しかし、現実の自分がそこから程遠いものであることをしばしば嘆くかもしれません。現実は真理に従順ではなく、兄弟愛に向かっていくようにと清められてもいない自分の姿に失望するかもしれません。

 しかし、それにもかかわらず、「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」と勧めるのが聖書です。

 神がここでクリスチャンに期待していることは、自分の現実の姿に失望することではありません。そう語ってくださる神に信頼し、すべてを神の手に委ねて、兄弟愛に励もうとすることです。完全とはほど遠いものであったとしても、それでも、神の言葉の真理に従順であろうとして歩み始めた私たちを、神は兄弟を愛するようにと導き続けてくださっています。いえ、恵み深くも聖書は、「魂を清められた」と完了形で語っています。確かに神の目には清いとされているわたしたちです。そうなのですから、いっそう清い心で深い兄弟愛に生きることが期待されているのです。

 続く23節では、兄弟愛に生きようとするわたしたちをさらに励まして、こう述べています。

 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」

 ここでも、「新たに生まれたのだ」と完了形で言い切ります。しかも、それは「神の変わることのない生きた言葉によって」です。かつて天地創造のとき、神は言葉によって世界をお造りになりました。今、その同じ神の言葉によって、キリストを信じる者たちは新たに造られたもの、新たに誕生したものとなったのです。

 そのような者として、兄弟愛に生きることが求められています。わたし一人が、ではなく、主を信じる者すべてが、神の言葉によって新しく生まれた者なのですから、主に救われた者同士互いに受け入れ合うのは当然のことです。

 クリスチャン一人ひとりを命へと生き返らせた神の言葉は変わることがありません。ペトロはそのことを強調して、兄弟愛の勧めを結びます。変わることのない神の言葉に生かされているわたしたちですから、今も兄弟愛に生きるようにと私たちは召されています。

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