聖書を開こう 2017年6月15日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  募金の勧めとその動機(2コリント8:8-15)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人が人と協力して生きていくときにより豊かな人生を送ることができるように、個々の教会も互いに協力し、助け合うときに、キリストの体に属するものであることをよりいっそう表すことができます。福音が世界に広がっていくときに、あちこちに礼拝に集まる群れが誕生しました。しかし、それらの教会は最初から互いに孤立した教会ではありませんでした。

 前回も触れましたが、アンティオキアの異邦人教会は飢饉で困窮するユダヤのエルサレム教会のためにさっそく支援の手を差し伸べました(使徒11:29-30)。マケドニア州のフィリピ教会は、パウロの働きをもののやり取りで支えました(フィリピ4:15-16)。

 そのように、キリスト教会は生まれた時から、具体的な支え合いを通して、一つの教会であることを体現してきました。

 今、学んでいるコリントの信徒への手紙の中にも、慈善活動についての具体的な勧めがなされています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 8章8節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。

 前回取り上げた個所の最後で、パウロはこう記していました。

 「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」(2コリント8:7)

 きょうの個所はそれを受けての言葉から始まります。

 「わたしは命令としてこう言っているのではありません」(2コリント8:8)

 パウロはこの慈善の業を、決して強制的な命令として、実行させようとしているわけではありません。そもそも、慈善の働きは強制されて行うものではないからです。

 では、それは何によって促されるのでしょうか。パウロは続けてこう書きます。

 「他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」

 ここでパウロは、慈善の業の根底に、純粋な愛があることを期待しています。

 誰かを助けるためにお金を使うという行為には、様々な動機があるはずです。先に恩を売って、後から見返りを期待するという動機で人助けをする人もいるでしょう。また別な人は、慈善に熱心な自分が、ほかの人から注目を浴び、称賛されたいという動機からそれを行う人もいるでしょう。また、別な人は、困っている人を見て、他人事とは思えなくて、慈善の業に励む人もいるでしょう。もちろん、これらの動機の間を行ったり来たりしながら、それを行う人もいます。

 パウロは有名な「愛の賛歌」と呼ばれる個所で、こんなことを書いています。

 「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(1コリント13:3)

 「愛がなければ、何の益もない」と言い切ってしまうほどに、パウロにとって愛の動機は重要でした。

 しかし、パウロが語る「愛」には、それに先行する「神の愛」があります。その神の愛は、イエス・キリストを通してもっとも鮮明に示されている、とパウロは考えています。パウロが語る愛について理解するとき、この先行する神の愛を自分に注がれた愛として意識することがとても大切です。

 キリストを通して表された愛と恵みを豊かに受け取っているという自覚が、クリスチャンとしての「愛」を育んでいきます。そして、そのようにキリストによって啓発され育まれた愛からだけ、キリスト教的な慈善の働きが生まれるのです。

 イエス・キリストもルカによる福音書の中でこうおっしゃっています。

 「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:14)

 神の愛は罪の赦しの中にもっとも鮮明に表れています。キリストによって罪を赦されているという自覚が、自分に注がれた神の愛を確信させ、その意識が他者への愛を豊かにしていきます。

 愛とは決して強制されるものではありません。それと同じように愛から生まれる慈善の業も、強制されて出てくるものではありません。

 そのために、パウロは命令口調で慈善の業を勧めるのではなく、彼らの自覚に訴え、自発的に慈善の業を行うようにと励ましています。

 パウロは、ここで人が陥りやすい誤りを先取りして、正しています。

 第一に、十分に持っていないことを嘆くあまり、慈善の業に消極的になってしまう誤りです。神は、人が持っているもの以上のものを人から要求なさることはありません。そもそもすべては神から恵みとして与えられたものなのですから、それを用いること以外に人にできることはありません。今持っているものの中から心から進んで捧げることが大切です。

 もう一つの誤りは、慈善の業は、誰かを楽にさせるために自分が苦労を負わされることなのではないか、という誤解です。貧富の差は現実の問題です。その原因は様々あるでしょう。そして、それは神の全能の力で一気に解決することもできるはずです。しかし、神はあえてそうなさらずに、富んでいる者が貧しい者を支え、恵みの富を分かち合うことで貧富の差や過不足を補うことを求めておられるのです。

 こうして神から注がれた愛が、慈善の業となって、他の者たちにも届くことを、神は望んでおられるのです。

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