聖書を開こう 2017年7月13日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  支援献金がもたらす祝福(2コリント9:11-15)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人が何かをするときに、結果を期待するのは当然のことです。自分がしたことが、何の変化も生み出さないと知りながら、それでも何かをしなければならないとすれば、それこそ苦痛以外の何物でもありませんし、空しささえ感じてしまいます。

 今学んでいる手紙の中には、エルサレム教会への募金活動のことが取り上げられていますが、この働きがどんな祝福をもたらすのか、そのことをパウロは余念なく語っています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 9章11節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

 前回取り上げた個所では、この募金活動が、惜しむ気持ちからではなく、各自が決めたとおりになされることが期待されていました。その出発点には、神がまずわたしたちを豊かに恵んでくださっている、という大きな前提がありました。

 神の豊かな恵みの中に生かされているということを心から信じ、まことにその通りであると思うとき、人は喜んで捧げることができるようにされていきます。今日取り上げた個所は、そのことを受けての展開です。

 ギリシア語聖書の文の区切りからいうと、途中からになってしまいますが、コリントの教会の信徒たちが、神の豊かな恵みに生かされていることを悟り、惜しまず捧げるようになった結果、その施しが神に対する感謝を生み出すようになる、とパウロはこの募金活動のもたらす祝福を述べます。

 確かに、エルサレム教会のための募金がもたらす直接の効果は、次の12節で述べられているとおり、エルサレム教会の人々の欠乏を補うことです。そして、この募金の第一の目的はそのことにあったはずです。

 しかし、パウロは、この募金がもたらす祝福を、ただ欠乏が補われるということだけに見出そうとしているわけではありません。この働きを通して引き出される「感謝の念」ということにも、パウロは目を留めようとしています。

 この場合の感謝の主体ですが、パウロたちを通して募金を受け取ったエルサレム教会が、神に対して感謝の念を抱くという意味にも取れます。しかし、コリントの教会の人々が、パウロを通して集めた献金をエルサレムに届けることで、自分たちに与えられた神の恵みをいっそう自覚し、神に対する感謝の気持ちを抱くようになるとも受け取れます。

 12節に述べられている「この奉仕の働きは…神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」という言葉の意味も、おそらく、神の恵みに対するコリント教会の人たちの自覚と感謝が、この奉仕の働きをますます盛んにしていくという意味でしょう。

 いずれにしても、感謝される相手は、コリントの教会の働きではなく、神に対する感謝です。キリスト教会では、もちろん、人の行為に対する感謝の気持ちを軽んじるわけではありません。しかし、その背後ですべてを整えてくださっている神に対する感謝の思いがいつも前面に出てきます。

 だれか人間に対する恩義を感じて何かの行動に出るというよりは、神に対する感謝の思いから何かをする、というのが聖書の神を信じる者たちの行動の動機です。

 コリントの教会の人たちは、自分たちに与えられた神の恵みを知ってエルサレムの教会のために惜しみなく捧げるようになり、そのことが実際に行われるときに、そうできるようにと恵んでくださる神にいっそう感謝の念を抱き、その結果ますますこの奉仕の業に励むことができるようになるという好循環が生まれます。パウロはこの募金活動がもたらす祝福をそのように語っています。

 パウロが指摘する祝福はまだほかにもあります。

 それは、異邦人とユダヤ人の間にある隔てを取り除くのに、いっそう役立ちます。確かに、使徒たちの会議の中では、神はユダヤ人も異邦人も何の隔てもなくキリストによって救ってくださるという信仰が確認されました(使徒言行録15章)。しかし、すべてのユダヤ人クリスチャンが、心から異邦人クリスチャンを受け入れるのには、温度差があったはずです。おそらく、この異邦人教会の献金が、エルサレムの教会のユダヤ人クリスチャンに与えるインパクトはとても大きかったはずです。エルサレムの教会の人々は具体的な捧げものを通して、同じ信仰に生き、同じ主を見上げる交わりの中にあることを心にしみて感じることができるようになったことでしょう。そして、そのことが神への賛美へと人々の心を向かわせます。

 さらに、この募金活動の結果、パウロはエルサレムの教会の人々が、コリント教会をはじめとして、異邦人教会の信徒たちを心から愛し、慕うようになると、その祝福の大きさを語ります。

 キリストを頭とした教会が一つであることは、誰もがわかっていることです。しかし、それを実感できるのは、具体的な分かち合いや助け合いを通してです。パウロが計画したエルサレム教会への募金活動は、ただ単にエルサレム教会の欠乏を補うという目的のためではありませんでした。ここには、それを超えたいくつもの祝福が予想されていました。

 同じことは現代の教会でも実感されています。地震大国の日本の教会は、近年、二度にわたって大きな地震に見舞われました。その時、海外の大きな教会から小さな教会に至るまで、たくさんの教会から義援金をいただきました。そのことを通してわたしたちが得たものは、ただ金銭的な援助だけではありません。何よりも主にあって一つの教会であることをわたしたちは深く実感することができたのです。

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