聖書を開こう 2017年8月24日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  あえて誇るパウロの苦労(2コリント11:16-33)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 先日、教会関係の集まりで、牧師仲間と同宿する機会がありました。久しぶりに同僚の牧師たちと同じ部屋に泊まり、日ごろの近況を語り合いました。順調そうに成長している教会の牧師たちも、話し出せば苦労話が絶えません。考えても見れば、苦労のない牧師などいないのかもしれません。いえ、牧師に限らず、どんな仕事でも、成功の裏には苦労がつきものです。

 しかし、ほとんどの牧師たちは、気心知れた仲間うちでの話は別として、自分の経験した苦労を信徒の前で語ることはほとんどありません。それはいろいろな意味で配慮が必要だからです。何よりもそのような苦労話はほとんどの場合あまり役に立つとは思われないからです。

 けれども、きょうこれから取り上げる箇所には、パウロの苦労話がひとしきり並べられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 11章16節〜33節までですが、21節後半からお読みします。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から篭で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。

 今、お読みした個所には、パウロによる長い前おきが付いています。時間の関係でその部分を省略しましたが、そこには、あえて自分を誇る愚かさを我慢して、パウロが語ることに耳を傾けてほしいという願いが込められています。

 というのは、コリント教会の信徒たちは、自分を惑わす偽使徒たちの話にすっかり心を奪われて、福音の教えから踏み外してしまいそうになっていたからです。

 もとより、パウロは好んで自分を誇るような人ではありませんでした。けれども、それがコリント教会のためであるなら、あえて愚か者になって語ろうというものです。

 パウロはまず自分の民族的な誇りを並べます。それは言うまでもなく、パウロに敵対する偽使徒たちに対して、パウロが少しも引けを取らないということを言うためでした。もちろん、パウロにとっては、キリストにあってはユダ人も異邦人もないと確信していたのですから(ガラテヤ3:28)、そのような誇りはどうでもよいことでした。しかし、偽使徒たちが、民族的な誇りを前面に打ち出して、何か自分たちの教えの正しさを主張しているのであるとすれば、パウロはそれに対抗して、自分もれっきとしたユダヤ人であることを主張しないわけにはいきません。

 民族的な誇りに続いて、パウロは自分がキリストに仕える者であるという点で、彼ら以上にそうであることを数々の例を挙げて示します。

 考えても見れば、パウロにこんなことを言わせる偽使徒たちの主張が、どれほど低俗であったのかということを想像させます。そもそも、教会の中で「わたしはキリストに仕える者であるが、あの人はそうではない」と言う言葉がささやかれるとすれば、これほどに高慢なことはありません。もちろん、確かな証拠があって、「キリストの僕」と呼ぶにふさわしくいないと非難しなければならないことは教会でも起るでしょう。しかし、その場合でも、まずは本人に対して直接忠告すべきです。

 敵対者たちは何の根拠もなくパウロを貶める悪い噂を吹聴していたのでしょう。それに対抗するように、パウロは自分が誰よりも熱心にキリストに仕える者であることを弁明します。もっとも、偽使徒たちはもともと使徒ではないのですから、キリストに仕える者ですらありません。まともに相手をする必要もありませんが、パウロが相手をしているのは、彼ら偽使徒たちではなく、偽使徒たちに騙されて福音から離れてしまいそうなコリントの信徒たちです。

 ここで、パウロが自己弁明をする仕方には興味深いものを感じます。パウロはここでキリストに仕える者であることをいうために、決して成功話を持ち出しません。どれだけたくさんの教会を建て上げたか、何人の人に洗礼を授けたか、そんなことの一つも語りません。パウロにとって、キリストの僕であることの一番の印は、キリストとともに苦難の道を歩むことです。福音のために降りかかる苦しみを受け止めて、それでもキリストに仕え、福音を語り続けることです。それは、偽使徒たちの姿と対照的であったことでしょう。

 敵意ある迫害に遭ったこと、偶発的な事故や事件に巻き込まれたこと、それこそ数えきれない苦労がパウロにはありました。

 「その上に」とパウロは言葉を続けて、こう述べています。

 「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」

 パウロはキリストに仕える者として様々な苦労を経験しましたが、それはキリストが教会を愛してご自分を捧げられたように、教会への愛が根底にあったからです。苦労のための苦労ではありません。

 結局のところ、委ねられた群れに対して、どれほどの愛を抱いているのか、それこそが、偽使徒とほんとうの使徒との大きな違いなのです。

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