聖書を開こう 2018年5月10日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  イエスの評判とヘロデの当惑(マルコ6:14-20)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエスとは何者なのか。この疑問は、今までにも多くの人によって問い続けられてきました。しかし、決して新しい答えがあるわけではありません。マルコによる福音書を読んだだけでも、おおよその答えのパターンはすでに登場しています。

 きょう取り上げようとしている個所にも、イエスについての噂や評判が記されています。しかし、世間の風評はいくら積み重ねても、イエス・キリストの真実な姿にはなりません。後にイエス・キリストご自身が弟子たちに問い掛けたように、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(8:29)と、今を生きる私たちにもキリストは問いかけておられます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 6章14節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

 先週学んだ個所では、イエス・キリストによって12人の弟子たちが宣教のために遣わされたことが取り上げられました。あたかもその弟子たちの手による宣教活動の結果を受けるかのように、マルコによる福音書は「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」と書き出します。

 イエス・キリストの評判については、これまでのところにも、良いものも悪いものも含めて、既に何度もこの福音書の中には記されてきました。つい先ごろ訪れた故郷ナザレでの評判は決して積極的・肯定的なものではありませんでした。故郷の人々はキリストの教えやみ業に驚嘆しながらも、しかし、イエス・キリストの人間としての生い立ちに心を奪われてしまい、それ以上このお方のことを深く考えようともしませんでした。

 さて、きょう登場するのはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスです。このヘロデは、イエス・キリストに対する人々の噂や評判に触発されて口を開きます。人々がイエスのことを「ヨハネの生き返りだ」「いや、エリヤの再来だ」「いや、昔の預言者のような人だ」と噂をする中で、ヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と断言します。それは、決してイエス・キリストに対する恐れからではなく、むしろ、自分が首をはねた洗礼者ヨハネに対する恐れの思いからでした。洗礼者ヨハネの教えに対して当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたヘロデが、ヨハネを投獄し、殺害させたのですから、ヘロデは良心の呵責にさいなまされていたのでしょう。

 ところで、ヘロデが洗礼者ヨハネを逮捕して投獄してしまった次第が、過去を振り返る形で記されています。ここにはヘロデ家の人々の複雑な人間関係があります。

 実はここに登場するヘロデは、イエス・キリストが誕生するときにユダヤを統治していたヘロデ大王の息子で、母親はサマリア人マルタケでした。このヘロデ・アンティパスは、父ヘロデ大王の死後、大王の統治していた領土の一部を受け継ぎ、ガリラヤとペレアの領主となっていました。残念ながらローマ皇帝から「王」の称号を名乗ることが許されず、一介の領主にすぎませんでした。

 そのヘロデ・アンティパスにはナバテア王アレタスの娘が妻としていましたが、その妻を離縁し、自分の異母兄弟の娘で、別の異母兄弟の妻となっていたヘロディヤと結婚するという暴挙に出ました。洗礼者ヨハネはそのことがモーセの律法に違反する不道徳であると、公然とヘロデを非難しました。そのことがきっかけで、ヘロデは洗礼者ヨハネを投獄することになりました。

 このヘロデ・アンティパスのことをルカ福音書の中でイエス・キリストは「あの狐」と呼んでいます(ルカ13:32)。おそらく狡猾な人物だったのでしょう。同じルカ福音書には、後にこのヘロデ・アンティパスが、イエスに会って、非常に喜んだ、と記していますが、その理由は、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからであったと記されています(ルカ23:8)。

 ヘロデにとって、確かにイエス・キリストは自分が処刑した洗礼者ヨハネの再来であり、また、それがために恐れを抱いてもいました。しかし、後に裁判にかけられようとしているイエス・キリストを実際に目の当たりに見たとき、何もすることができないイエスを見て、兵士たちと一緒になってイエスをあざけり、侮辱しました。

 ヘロデにとって洗礼者ヨハネの生き返りであるイエスは、恐れを抱かせる存在ではありましたが、しかし、それも一時的なことでしかありませんでした。

 さて、マルコによる福音書はいったいどういう目的をもって、このヘロデがなしたイエスについての発言を書き記したのでしょうか。

 確かに十二弟子を遣わした記事からの続きとして読むときに、この宣教の働きは領主ヘロデ・アンティパスの良心を動揺させるには十分であったのかもしれません。しかし、結局のところ、イエス・キリストに対する関心や興味は抱いても、それ以上のところにまでは至ってはいません。それどころか、最終的にはイエス・キリストをも処刑することに荷担してしまいます。

 しかし、それはヘロデ家の人々の残忍で複雑な人間関係から生まれ出たものでは決してありません。イエス・キリストを十字架にかけてしまう残忍さは、後にキリストを訴えでた律法学者や民衆も同じでした。

 自分のした悪事に気が付き、良心の痛みを覚えながらも、しかし、けっしてイエスを救い主として受け入れない人間のかたくなさを、マルコ福音書は描いています。ヘロデのとった態度は決して他人事ではありません。

 しかし、このような頑なな人間であるからこそ、ほんとうは救いが必要なのです。そのためにこそ、イエス・キリストはこの世に来てくださいました。そのイエスを、救い主として信仰をもって受け入れることをマルコ福音書は望んでいます。

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