聖書を開こう 2018年5月17日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  洗礼者ヨハネの死(マルコ6:21-29)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読んでいて、難しい個所に行き当たるという経験は誰にでもあると思います。難しいと一口で言っても、その難しさの内容は様々です。実はこれから取り上げようとしている個所も、ある意味で難しい個所です。

 その難しさと言うのは、そこには「神」という言葉も、「キリスト」と言う言葉も、また福音の「ふ」の字すら出てこないからです。出来事を淡々と描いてはいるのですが、何か教訓を引き出せるようなそういう事件でもありません。事件は事件として、淡々と読むというのも一つの読み方かもしれません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 6章21節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

 先週に引き続き、ガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスのことが描かれます。描かれた出来事は、既にずっと前に起こったことなのですが、そのことがヘロデの心をいつまでも動揺させているということなのでしょう。

 イエス・キリストという人物を、自分が殺したはずの洗礼者ヨハネが生き返ったに違いないとヘロデは思い込んでいました。ですから、イエス・キリストについての評判が巷でささやかれるようになると、ヘロデ自らが「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言い出すほどです。

 さて、その洗礼者ヨハネがどういういきさつで殺されてしまったのかを描くのが、きょう取り上げた聖書の個所です。そこから無理にメッセージを引き出そうとはしないで、とにかく書かれている歴史を淡々と見ていきたいと思います。

 時はヘロデ・アンティパスの誕生日のことでした。ヘロデの妻ヘロディアは、かねてから自分たちの結婚に反対し、公然と非難してきた洗礼者ヨハネを殺害しようと機会をうかがっていました。

 先週もお話した通り、ヘロデ・アンティパスはナバテア王アレタスの娘を妻としていました。しかし、その妻と離婚して、自分の異母兄弟の妻となっていたヘロディヤと結婚しました。つまり、ヘロデとヘロディアはそれぞれ既に別な相手と結婚していたのですが、それぞれ離婚を強行して、夫婦となりました。洗礼者ヨハネはそれを神の教えに反する不道徳として公然と非難しました。しかし、そのために、ヨハネは逮捕され、投獄されるという目に遭っていたのです。

 ヘロディアにとっては、ヨハネを牢獄に放り込むだけでは気が治まりません。いつかヨハネの首をはねることをずっともくろんできたのでしょう。その計画を実行する日がいよいよ訪れたのです。手口は実に狡猾です。

 ヘロディアには前の夫との間に生まれた娘、サロメがおりました。ヘロデの誕生日の宴の席で、この娘サロメに舞をさせたのです。いやしくも領主の娘が人前で舞を舞うなどと言うことはありえないことかもしれません。いえ、それだからこそ、ヘロデや観衆を喜ばせたのでしょう。喜んだヘロデはつい口を滑らせて「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ってしまいました。

 もちろん、いくらヘロデが領主とはいえ、ローマ帝国の領土を簡単に人に上げたりすることなどできるはずもありません。いくら酒の席で約束したとはいえ、あまりにも軽薄です。

 この言葉に「しめた!」と思ったのはヘロディアだったでしょう。しかし、「この母にしてこの子あり」とはよく言ったもので、サロメはヘロデの言葉を耳にすると、すぐさま母親のところに言って、何を願うべきかを問います。しかも、母親の残忍なリクエストを、何のためらいもなくヘロデに伝えます。

 「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」

 生首を盆に載せて、今すぐ持ってくるようにとは、おおよそ少女の言うせりふではありません。

 こうして、ヨハネを投獄しながら、いつまでも処刑できないでいたヘロデ・アンティパスの優柔不断さは、この母と娘の強引な計画によって、とうとうおしきられてしまいます。

 さて、このような残忍な事件を福音書記者はなぜ後世に伝えようとしたのでしょうか。確かにヘロディアとサロメ親子の行動は猟奇的で、それだけで後世に伝えるに値するのかもしれません。あるいは、人間の罪の恐ろしさが、そこには凝縮されていると言えるのかもしれません。恨みからでる殺人は、どれも残忍です。

 しかし、この事件をマルコ福音書が伝えたのは、話の筋から言えば蛇足のようにも思われます。要は、イエスの評判が領主ヘロデ・アンティパスをおびえさせ、イエスは洗礼者ヨハネの再来であるという妄想をヘロデに抱かせたというだけで十分なような気がしなくもありません。

 しかし、ヨハネが殺されたことを詳しく描くのには、イエス・キリストにこれから起ころうとしていることを読者に暗示するという効果もあるだろうと思われます。

 そもそも、イエス・キリストがガリラヤ伝道を開始するきっかけとなったのは、洗礼者ヨハネが逮捕されたからでした(1:14)。ガリラヤというのは言うまでもなく、洗礼者ヨハネを捕らえたヘロデ・アンティパスの領有地です。

 そんな場所へわざわざ行ったのですから、イエス・キリストの活動がどういう道をたどるかは想像がつきます。まして、キリストの評判が領主ヘロデの耳に達し、ヘロデは洗礼者ヨハネのことを思い出しているのですから、キリストの活動の行く末は火を見るよりも明らかです。

 すでに、3章6節で、ファリサイ派の人々はヘロデ派の人々と共謀してイエスを殺してしまおうと言う相談をしています。イエスの評判がヘロデ・アンティパスの耳に入った今となっては、ますますその計画は現実味を帯びてきたと言えるでしょう。

 しかし、マルコ福音書がほんとうに描きたいことは、そうした人間の罪深い計画そのものではありません。むしろ、その人間の罪を救おうとして、あえて苦難に立ち向かうキリストの姿です。邪魔者を殺したと豪語する人間の愚かさを通して、神は救いの業を着実に進めようとなさっていらっしゃるのです。

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