聖書を開こう 2018年9月13日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  これは私の愛する子(マルコ9:2-8)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 評価の定まった人物を理解すると言うのは比較的簡単なことですが、そうではない人物を見定めて、その人に信頼してついていくというのは、とても難しいことです。

 福音書を読んでいて、現代の私たちとその当時の弟子たちが決定的に違っていることが一つあります。それは、弟子たちにとっては、イエスというお方の全体像が、つかみきれていなかったと言うことです。そのために、このお方について、とんでもない期待をしてみたり、思わぬ言葉に仰天してみたり、弟子たちはいろいろとちぐはぐとも思える反応を示すことがあります。イエス・キリストについて見ること、聞くことが弟子たちにはことごとく新鮮であったといってもよいかもしれません。

 きょうこれからお読みしようとしている個所にも、弟子たちにとって初めて見るイエス・キリストの姿が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 9章2節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 6日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

 すでに学んだとおり、イエス・キリストは弟子たちに、自分が何者であると思うかとお尋ねになりました。そのときペトロが答えたのは「あなたこそメシアだ」というものでした。イエスをメシアだと告白することは、それは確かに画期的な出来事でした。しかし、もっと大切なことは、いったいどういうメシアを期待しているかということです。

 イエス・キリストは、ペトロが「あなたこそメシアだ」と告白したすぐ後に、ご自分の身の上に降りかかろうとしていることをあからさまに弟子たちに語って聞かせました。つまり、イエス・キリストがお語りになったメシアの姿とは苦難のメシアの姿だったのです。それはイザヤ書53章で預言されていたような苦難の僕の姿に一致するものでした。これを聞いたペトロもさすがにびっくりして、イエスを脇へ引き寄せていさめたとあります。
 しかし、キリストはそのペトロの行動を退けて、この苦しみに遭うメシアの後に従うようにとお求めになりました。それが先週までのところで学んだことでした。

 イエス・キリストがお語りになったのは確かに苦しみに遭われるメシアの姿でしたが、しかし、それでおしまいではありません。イエス・キリストが語ったメシアは「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」(8:31)メシアの姿でしたが、その苦難の後に「復活することになっている」(8:31)メシアでした。

 「自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」(8:34)とおっしゃるお方は、同時に「父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来」(8:38)てくださるお方です。そのメシアの持つ輝く栄光の一端を世の終わりが来るに先立ってあらかじめ見せてくださったのが今日の聖書の個所です。

 イエス・キリストはごく限られた弟子、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて高い山に登られたとあります。どうして、この3人なのかは、わかりません。ただ、世の終わりのときには、誰もが見ることになっているイエス・キリストの栄光の姿をあらかじめ見ることがこの3人には許されました。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(13:26)とキリストがおっしゃったその栄光を帯びたキリストの姿を、ことが起こるに先立って、3人の弟子たちにお示しになりました。

 苦しみに遭うメシアと栄光のメシア、この二つの姿はあまりにもかけ離れていて、同じ人物について苦難と栄光の両方を考えることは難しいくらいです。苦しみに遭うメシアについて心にその姿を思い描いた者たちは、もはや栄光の姿について想像することはできなくなってしまうくらいです。実際、苦難について聞かされたペトロの反応がそうでした。栄光の姿はすっかり心の中からどこかへ飛んでしまい、ただ、メシアの苦しみを否定するだけとなってしまいました。

 しかし、神がおつかわしになったメシアは、苦難の僕・苦難のメシアであると同時に、それを通して栄光の姿に輝くお方です。これは、苦難の僕を預言したイザヤ書が栄光の姿の僕についても語っているとおりです。

 イザヤは苦難の僕について語りだすときに、意外にも、まず先に僕の栄光について語っています。

 「見よ、わたしの僕は栄える。 はるかに高く上げられ、あがめられる」(イザヤ52:13)

 苦難と栄光、この二つのことは、神がおつかわしになるメシアについて考えるとき、切り離すことができないものなのです。

 さて、3人の弟子たちが山に登って目にしたものは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど真っ白に輝くキリストの姿です。それとともに、エリヤがモーセと共に現れて、イエス・キリストと語り合う姿でした。エリヤやモーセとイエスが何について語り合っていたのか、マルコ福音書には記されていません。ルカ福音書には「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」語り合っていたと書かれています(ルカ9:31)。それはただ単にイエス・キリストの十字架の死についてというよりも、もっと奥深いことだったに違いありません。十字架と復活を通してもたらされる救いへの道とでも言ったらよいでしょう。

 そして、さらに3人の弟子たちは天から自分たちに語りかける声を耳にしたとあります。

 「これはわたしの愛する子。これに聞け」

 この言葉はイエス・キリストが洗礼を受けたときに耳にした言葉を思い起こさせます。しかし、今や、イエス・キリストの内側に聞こえた声としてではなく、そこに居合わせた3人の弟子が耳にした言葉として記されています。

 つまり、苦難と栄光のメシアである「私の愛する子」に、聞き従え、という言葉です。父なる神は、やがて十字架で苦しまれ、救いのみ業を成し遂げて、栄光に輝くメシアをおつかわしになり、このメシアを支持していらっしゃいます。

 それはペトロがイエスに向かって「あなたこそメシアです」と口にした時には、脳裏をかすめもしなかったことでしょう。しかし、この苦難を通して栄光に輝くメシアこそが、わたしたちが信じ従っていく真の救い主の姿なのです。

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