聖書を開こう 2018年9月27日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  下界のギャップ(マルコ9:14-19)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ラファエロの描いた絵に『キリストの変容』というタイトルの絵があります。この絵は丁度先日取り上げた、山上でまばゆいほどの姿に輝いたキリストを描いた作品です。ラファエロ最後の作品として知られている有名な絵です。私がこの作品をはじめて見たとき、一番興味を惹かれたのは、この絵の上半分と下半分の対照的な描かれ方でした。

 上半分は光り輝くキリストの姿が明るい空を背に描かれています。ところが、下半分にはきょう取り上げようとしている聖書の場面が暗く描かれています。それは白目をむいた半裸の少年が父親に支えられるように描かれており、それと対峙するように、怒りとも絶望とも混乱とも思える人々の様子が描かれています。

 このラファエロの作品は、今日これから取り上げようとしている個所を、どのように読むべきなのかを暗示しているように思われます。つまり、あの山上で輝くキリストの姿と今日これから取り上げる箇所は、決して別々の出来事なのではなく、一続きに読まれるときによりいっそう理解が深まるということです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 9章14節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 さて、今日の個所は長い個所ですので、今回は19節までのところを取り挙げることにします。

 場面は山上で輝くキリストの姿を目撃した3人の弟子たちが、山を下って他の弟子たちのところへやってるところから始まります。

 山を下ってきた弟子たちは、たった今、自分たちが目撃した出来事の興奮からまだ覚めやらない状態です。まるでこの地上とは別の世界に行って来たような、そんな余韻がまだ気持ちの中に残っている、そんな3人の弟子たちです。

 その弟子たちが山を下って目にしたものは、たった今自分たちが味わってきた世界とはまったく別の世界です。子供の癒しを願う父親の姿、その願いをかなえることのできない他の弟子たち。そして、それを取り巻く群衆たち。どの顔にも平安や輝きがありません。しかも、最悪なことに、残された弟子たちは律法学者と議論をする姿です。何をどう議論していたのかは書かれていませんが、とにかくそこに居合わせた群衆の話では、汚れた霊にとりつかれた少年を癒すことができなかったことを巡る議論のようです。

 ここに感じるのは、1人の少年を癒すことができなかったという絶望感では決してありません。人間にはできないことはいくらでもあるからです。確かに、弟子たちを頼ってやってきた父親には、失望した思いもあったでしょう。しかし、この場面を最も悲惨なものにしているのは、癒せなかったという事実では決してありません。そうではなく、この父親が背負っている不安も、この少年が背負っている苦悩も、もはや誰一人として関心をもって接する人がいないという事実が、この場の雰囲気を悲惨なものにしています。

 律法学者たちは弟子たちのイカサマぶりをあげつらうことに躍起です。弟子たちも、自分たちの失態の言い訳をするのに懸命になっています。群衆たちはこの議論の行方がどうなるかそればかりが気になります。しかし、この汚れた霊に取りつかれた子供とその父親のことを心から心配に思う人は見当たらないのです。

 山から下りてきた3人の弟子たちが見たのは、正にそういう人間の暗さです。たった今、眩しいほどの輝きを見てきたこの3人の弟子たちにとっては、そのあまりにものギャップに、言葉がなかったことでしょう。意気揚揚と山を下ってきた3人の弟子たちの気持ちが一気に冷め切ってしまったに違いありません。

 けれども、この場面には希望がないのではありません。山を下りてこられたキリストがいらっしゃいます。あの輝くほどの姿に留まって、二度と下界には降りてこられないキリストではありません。再びこの暗さが覆う地上の世界に戻ってこられたキリストです。

 ほんの数日前、イエス・キリストは弟子たちに、真のメシアとはどのようなことを果たされるかとお語りになりました。それは人々からの苦しめを敢えてお受けになるメシアの姿でした。それは高くて遥か彼方の遠い天で、この地上とは関係なく輝いているメシアではありません。いえ、本当は栄光の姿に輝くお方でありながら、自らを低めて、この罪の世界にやってこられた方です。ただやって来られるのではなく、自分のすべてを捧げ尽くして、人に仕える姿のメシアです。

 誰一人として、この親子に親身の関心を寄せないこの場面で、イエス・キリストだけがこの親子に関心を抱いていました。イエス・キリストは、人が人に対して本当の関心も興味も抱かない、罪にまみれた暗い世界に、進んでやってこられたのです。

 この世は、イエス・キリストの言葉にある通り、弟子たちでさえ、「信仰のない時代」を生きています。

 「信仰のない」という言葉には、深い意味がこめられています。ただ単純に神を信じないという意味ではありません。ここに居合わせている人々は誰もが神を信じている人たちです。律法学者も、弟子たちも、群衆もみんなそうです。自分では神を信じていると思っている人たちです。

 しかし、イエス・キリストの目には信仰のない時代なのです。なぜなら、この悲惨の中にいる親子を前にして、誰一人として神の前に額づく人がいないからです。律法学者は弟子のイカサマ振りと自分たちの正当性にしか関心がありません。この親子のために神の前に跪こうとはしないのです。弟子たちも、律法学者たちの前で議論はしますが、神の前にひれ伏して助けを求めようとはしません。隣人への愛もなく、神への額ずきもないのです。信仰のない時代とは、こういうことなのです。

 それはある意味で、今も同じです。隣人への関心が薄い時代です。反面、自分には最大の関心がある時代です。隣人の幸福のために神を求めない時代です。反面、自分の幸福のためならどんな偶像の前にも跪く時代です。

 こういう信仰のない時代。信仰のない世相だからこそ、イエス・キリストは栄光の座からこの地上へと降りてきて下ったのです。このキリストのうちにこそ、私たちの希望があります。

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