聖書を開こう 2018年10月18日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストに従う者とは(マルコ9:38-41)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私が洗礼を受けてから、もう少しで44年になります。40年間以上も、何かであり続けるというのは、この世的に考えれば大したものです。どんな世界でも10年も居続ければ、ベテランと呼ばれるでしょう。

 しかし、こと信仰のことになると、40年経ってもまだ未熟な自分であることを思います。これから先、まだまだ成長の余地があると思えば、聞こえがいいですが、きた道を振り返って、まだここまでなのかと思うと、ちょっとがっかりしてしまうかもしれません、

 しかし、こんな成長に時間のかかる者をも、忍耐をもって養ってくださる神のことを思うと、申し訳ないような気がします。しかし、この神の恵みと忍耐のうちを歩み続けることが一番であると確信します。

 きょうの個所もまた、弟子の1人が抱いていた思い違いが、イエス・キリストによって優しく正されます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 9章38節〜41節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに1杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 きょうの個所を読むときにも、イエス・キリストがご自分でお語りになったメシアの使命についての予告の言葉を思い起こしながら読むことが大切です。イエス・キリストはこれから起ころうとしていることについてこうおっしゃいました。

 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて3日の後に復活する」(9:31。8:31をも参照)

 イエス・キリストはこのことをただ単にご自分の身に降りかかる運命としてお語りになったのではありません。そうではなく、これこそがご自分に与えられた使命であるとお感じになっていらっしゃったのです。それが証拠に、弟子のペトロがそのことを打ち消そうと必死になったときに、キリストはそのペトロに向かって「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しい言葉で叱責したほどです(8:33)。

 確かに、人間的に考えれば、殺されるためにエルサレムに上るのは、犬死を選ぶようなものです。しかし、神のご計画を思うと、これこそがメシアに与えられた使命に他なりません。

 ところで、マルコによる福音書は、8章ではじめてこのメシアの使命をお語りになるイエスを描くと同時に、それ以来イエス・キリストがこのメシアの秘密をお語りになるたびに、弟子たちの無理解さが明らかにされていく様子を描いています。

 きょうの個所も正にそうしたメシアの使命を正しく受け留めきれない弟子の姿が描かれています。

 きょうの個所に登場してくるのはヨハネです。今まではこの弟子の名前が出てくるときにはいつも兄弟のヤコブとセットで出てくるか、あるいは、ペトロとヤコブとヨハネの3人が名前を連ねて出てきました。きょうは単独で登場します。もっとも、その言葉遣いから察すると、他の弟子たちを代表してイエスのもとへやってきているようです。

 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を(わたしたちは)見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」

 このヨハネの発言は、ヨハネ一人の思いではなく、弟子たちに共通した思いだったのでしょう。

 では、ヨハネをはじめ、弟子たちはいったい何をイエスに主張しようとしていたのでしょうか。この発言はいったいどんな思いから出てきたのでしょう。

 とても皮肉なことですが、ほんの少し前に、弟子たちが汚れた霊に取りつかれた少年を救うことができなかったという記事が出てきました(9:14以下)。かたや、弟子たちが道すがら目にしたのは、自分たちの仲間でもない者が悪霊を追い出している光景です。しかも、この人は弟子の仲間には加わろうとしない人でした。

 自分たちにできなかったことを、この人がイエスの名によってしていると言うだけでも面白くありません。そこへ持ってきて、自分たちに従おうとはしない態度をとっているわけですから、いっそう腹立たしい思いがしていたに違いありません。

 そのような働きはやめさせるべきだ、と弟子たちは考えたのでした。そして、その判断が正しかったことをイエス・キリストからお墨付きをいただこうとしたのでしょう。

 この弟子の発言に対するイエスのお答えは意外なものでした。

 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」

 このイエス・キリストのお言葉はあまりにも寛大とも受け留められる言葉です。この言葉を聞いて、弟子たちも唖然としたのではないかと思います。なぜなら、イエス・キリストは何度も何度も弟子たちに、ご自分に従ってくるようにとお語りになってきたからです。キリストの弟子であることとは、言い換えれば、キリストに従う者であるはずです。

 そのキリストの口から「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」という言葉が飛び出すとは、よもや弟子たちも思わなかったことでしょう。

 しかし、このキリストの発言を、「わたしの弟子とはわたしに従わなくとも、逆らいさえしなければよいのだ」ととってはなりません。一見、このやり取りは、だれがイエス・キリストの集団の一員なのかと言うことを教えているようにも受け取られてしまいがちです。しかしながら、イエス・キリストのお言葉の意図は、弟子たちについてこなかったその人のことではなく、その人を受け留めきれなかった弟子たちにこそ向けられているのです。

 イエス・キリストが身代わりとなって十字架の上で死のうとされたその相手とは、無理解な弟子たちをはじめ、巷にいる名もない人たちなのです。取るに足りない小さな者を受け入れることがメシアの使命であり、わずか水1杯分しか貢献できない者をさえも救うことがイエス・キリストの使命なのです。キリストに従うとは、この小さな者のためにも命を捧げるキリストに従うことなのです。

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