聖書を開こう 2018年11月29日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  人の子が来た目的は(マルコ10:35-45)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 もし、理想的な救い主の姿を自由に描くことができるとしたら、どんな救い主のイメージを描くでしょうか。それは悩み苦しみからの解放者の姿でしょうか。あるいは正義と公平を実現する勇者の姿でしょうか、あるいはまた、人々に商売繁盛、家内安全をもたらす福の神の姿でしょうか。あるいはまた、自分をワンステージ高めてくれるような、そういう指導者のようなイメージでしょうか。おそらくそのように描かれる救い主のイメージは、その人が宗教に対して抱いているイメージであり、また、そういうものを期待して宗教を信じたり、また、期待が外れて失望したりしているのだろうと思います。

 同じことはイエス・キリストの時代のユダヤの人々が来るべき救い主に対して抱いていた期待についても言えることです。

 きょうの個所は、人々のそうした期待とは裏腹に、イエス・キリストご自身が、何故ご自分がこの世に来られたのかを、お語りになる有名な個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 10章35節〜45節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 きょうの個所は、イエス・キリストがご自分の受難と復活を予告した直後の出来事が描かれています。この予告の言葉は既にここを含めて3度、マルコ福音書の中で語られています。

 そして、その予告のたびに、弟子たちはその言葉の意味を理解することができない、そういう姿が描かれます。

 最初の予告は弟子のペトロが「あなたこそ神の子メシアです」と告白した直後になされます。しかし、ペトロはそのような苦難のキリストの姿を受け入れることができずに、そんなことを語るキリストをいさめたとあります(8:27-32)。

 2回目の予告のあとでは、困惑する弟子たちの様子が描かれます。その意味が理解できずに、恐ろしくて尋ねることもできない弟子たちの姿です。しかし、そのすぐ後では、自分たちの中で一体誰が一番偉いのかということが、弟子たちの話題の中心になっています。あの、キリストの苦難の予告がまったく受け留められていないのか、はたまた、誤解されているとしか思えないような状況です(9:30-37)。

 そして、きょう、3回目の予告の後でも、同じように弟子たちの的外れな行動が描かれています。

 きょうの個所でも2回目のときと同じように、自分たちの地位や名誉のことが話題になっています。キリストの苦難の予告など全然聞こえていないかのような態度です。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出てイエスに願います。

 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」

 この二人は今までにもしばしば特別扱いされてきたでした弟子でした。会堂管理人のヤイロの娘を生き返らせる奇跡のときも、ペトロとこの二人だけがキリストと一緒に部屋に入ることが許されました(5:37)。また、イエスが山の上で眩しいほどの輝く姿になられたときも、山に上っていくことを許されたのは、ペトロとこの二人でした(9:2)。そういういきさつから考えて、ヤコブもヨハネも、当然に高い位につくことができると、期待していたのでしょう。

 しかし、この二人には、イエス・キリストが通らなければならない苦難の道について少しもわかっている様子はありません。イエス・キリストが問いかけた質問…「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」との問いに、彼らはいとも簡単に「はい、できます」と答えているのです。

 しかし、彼ら二人は、自分たちがした願いについて、二つのことを知っておかなければなりませんでした。

 その一つは、キリストの右や左にだれが座るかは、イエスご自身でも決めることはできないと言うことでした。イエス・キリストご自身が父なる神から遣わされた者であるので、キリストご自身もそれを決めることはできないのです。

 第二のことは、もっと大切なことです。それはキリストが遣わされた根本的な目的に関わることであり、また、キリストの弟子としての生き方に関わるからです。

 イエス・キリストは弟子たちに、この世の支配者のように人々を支配したり権力を振るうことは弟子としてふさわしくないとおっしゃっています。仕えられるためではなく、仕えることがキリストの弟子としての生き方なのです。

 それは、何よりもイエス・キリストご自身がそのような目的のために父なる神のもとから遣わされてきたからです。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 このマルコ福音書10章45節は、数あるイエス・リストの言葉の中でも、ご自分の使命について直接お語りになっているわずかな言葉の一つです。

 イエス・キリストは今までに3度、ご自分がエルサレムで遭遇する苦難について予告してきました。しかし、何のために命を落とすのか、一度もお語りになったことはありません。ここで、初めて、キリストの死が、代償として支払われる身代金であると告げられます。

 イエス・キリストは私たちが生きるようにと、死に至るまでわたしたちに仕えてくださるお方なのです。

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