聖書を開こう 2018年12月6日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  あなたの信仰があなたを救った(マルコ10:46-52)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「何がしたいのか」「何をして欲しいのか」…こういう質問はあらためて問われると、案外、何を答えたらよいのか迷ってしまう質問です。そもそも、あまりにも漠然と生きていて、何がしたいのか、何をして欲しいのか、あまり考えずに過ごしているときが多いような気がします。

 信仰に入るとき、この「何を期待しているのか」と言うことがはっきりしていると、その後の信仰の成長がしっかりするように思います。

 きょうの個所に登場する人物は、非常にはっきりと期待を持っていた人物です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 10章46節〜52節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 「一行はエリコの町に着いた」というこの言葉で始まるきょうの個所は、イエス・キリストがいよいよエルサレムに近づいてきたことを示しています。ご自分がメシアであることを弟子たちに現して以来、キリストは3度にわたってご自分がお受けになる苦難について弟子たちに予告なさいました。そして、その苦難を受ける場所こそ、正に旅の終着点エルサレムです。ご自分の苦難を予告されてからと言うもの、弟子たちの心配をよそに、イエス・キリストは受難に向かってまっすぐエルサレムへの旅を続けていらっしゃいます。エリコの町はエルサレムから北東に20数kmの距離ですから、あと、わずかでエルサレムに到着です。

 きょう取上げようとしている出来事は、このエリコの町からイエス・キリストがまさに出ようとしているときに起こりました。そして、マルコによる福音書にとっては最後の癒しの奇跡となる記事です。

 きょう登場するのは、バルティマイという名の盲人の物乞いです。この男が、町を出ようとするイエス・キリストを引き止めます。

 キリストがエリコの町を通過されるだけだったのか、それとも、一晩泊まっていかれたのかわかりませんが、おそらくはルカによる福音書が記しているように徴税人ザアカイの所で一泊したのでしょう。いずれにしても、この旅はイエス・キリストにとっては二度とエリコには戻らない旅でした。バルティマイはそんな事情を知ってはいなかったでしょう。しかし、この機会を逃せば、バルティマイにとっても次にイエス・キリストに出会えるチャンスがあるとは思えません。必死になってキリストを呼び止めます。

 もちろん、このような行動は、この町にいる物乞いたちには当たり前の行動なのかもしれません。また、エルサレムに巡礼に向かう旅人たちにとっても見慣れた光景なのでしょう。

 そうした見慣れた光景であるからこそ、イエス・キリストに同行する者たちは、この盲人の物乞いの願いを煩そうに妨げます。しかし、この男は妨げられれば妨げられるほど、ますます叫びつづけて、しつこくキリストに付きまといます。このようなしつこさは、裏を返せば、この男の願いと期待がはっきりしている証でもあります。この男にとって、二つのことははっきりしていました。一つは、何をして欲しいのかという自分の願いです。この男は目が開かれたいというはっきりした願いを持っていいました。もう一つは、その願いをかなえることができる方が誰であるかという期待です。イエス・キリストこそ自分の願いをかなえることができるお方であると、確信し、期待しつづけていたのです。

 その二つのことがはっきりしていたので、彼にとってはどんな妨げも、自分の行動をくじくことはできませんでした。信仰生活にはいろいろな妨げはつきものです。信仰を持たない家族や友人からの妨げは言うまでもなく、時には、同じ信仰の仲間からさえ、希望をくじかれてしまうと言うことさえ起こります。そんなとき、どれだけはっきりした願いと期待をもっているか、そのことが大切です。

 それと同時に、この男には自分が神のみ前にどんな存在であるのかと言うこともわかっていました。当然の権利として、癒されることを望んでいたのではありません。ただただ、ひたすら憐れみを乞いました。自分のうちにあるどんな功でもなく、ただ、神の憐れみに訴えました。

 自分のうちにあるどんなものが失せ去ったとしても、神は自分を憐れんでくださると信じつづけていたのです。自分に失望することがあっても、神の憐れみが最後の望みであると知っていたのです。

 イエス・キリストはこの男に目を留められます。ご自分のもとに呼んで来るようにとおっしゃいます。ここから場面の中心にイエス・キリストがお立ちになります。

 イエス・キリストは信仰をもってご自分に近づいてくる者たちに目を留められます。その人の持っている必要に心を留められ、願いに耳を傾けてくださいます。

 不思議にも、イエス・キリストはこの男に向かって「何をしてほしいのか」と問い掛けます。

 「何をして欲しいのか」というキリストの問いかけは、以前にも弟子たちに対して同じように尋ねたことがありました。もちろん、イエス・キリストには彼らの心のうちがわかっていなかったと言うのではありません。そうではなく、わたしたちが私たちの願いをはっきりと自覚するために、キリストは問い掛けていらっしゃるのです。

 イエス・キリストから促されて、わたしたちは自分の信仰や願いを言葉にするようにと励まされます。キリストが願っているのは、正しい答えでも、立派な答えでもありません。ただ、キリストを信じ、キリストの憐れみに心から信頼してより頼む姿勢です。まったき信頼をキリストに寄せるとき、「あなたの信仰があなたを救った」との言葉をキリストからいただくことができるのです。

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