聖書を開こう 2019年1月24日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神のものは神に(マルコ12:13-17)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「議論」という言葉にあまり良いイメージを持っていない人が多いかも知れません。感情が先立って、正しいことがかえって見えなくなってしまうことがあるからです。もっとも、そういうマイナスのイメージも否定は出来ませんが、科学でも、哲学でも、学問的な真理というものは多くの人との議論を通して明らかにされてくるということも確かです。

 しかし、議論のための議論や、相手をあからさまに陥れるための議論となると、話は別です。こういう議論に時間を取られる事ほどむなしいことはありません。

 きょうから入ろうとしているマルコ福音書の個所にはたくさんの議論が出てきます。どれも、テーマは真面目なものですが、イエス・キリストにそのような議論を仕掛ける人たちの動機は、最初から正しい答えを期待したものではありませんでした。

 そのような相手にキリストがどうお答えになるのか、興味をもって耳を傾けたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 12章13節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った」

 きょう取り上げられる個所には、とても大きなテーマが扱われています。それはローマ皇帝に従うべきか、神に従うべきかという、当時のユダヤ人にとってはとても関心の高い問題でした。もちろん、こんな問題をイエス・キリストのところに持ち込んだのは純粋な動機からではありませんでした。

 「イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして」と書かれている通りです。

 しかも、質問にやってきたのはファリサイ派とヘロデ派の人間です。この二つの派閥は水と油のように正反対の立場です。ファリサイ派は宗教的な純粋さを保つために自分たちをこの世的なものから分離してできた派閥です。他方、ヘロデ派は世俗の権力にべったりの人々です。そんな二つの派閥が手に手を取り合ってイエスのところへ来るということ自体、本来ありえないことです。

 しかし、この両者はある一つの目的のために、一致していたのです。それは、決してつい昨日今日仲良くなったというのではありませんでした。この福音書の最初の方、3章6節のところで、すでに「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」と記されている通りです。

 つまり、水と油のような両者でも、ただ一つイエス・キリストを殺そうとする点で、利害が一致していたのです。

 その彼らが、慇懃無礼な態度でイエス・キリストに尋ねた質問とは、ローマ皇帝に税金を納めるべきかどうかという問題です。

 ローマ帝国の支配下に置かれていた当時のユダヤは、当然、ローマ皇帝に対して納税の義務がありました。法律的に言えば、答えは一つしかありません。

 ところが、ユダヤ人にとっては、それが唯一の受け入れられる答えではなかったのです。その時代のユダヤには熱心党と呼ばれる国粋的な集団がおりました。彼らは主なる神だけが真の王であって、それ以外の王を認めませんでした。従ってローマ皇帝に税金を納めるということは神に対する忠誠を裏切ることになると主張したのです。

 つまり、彼らがイエス・キリストのところに持ち込んだ質問は、どっちの答えにしても、イエス・キリストを失脚させるには十分なものだったのです。納税を拒むようにと答えを返せば、ローマ皇帝に反逆をした者として訴えられて、たちどころに処刑されてしまいます。

 また、反対に納税するようにすすめれば、重税に喘ぐ民衆の期待を裏切ることになります。神への忠誠心を裏切った者というレッテルが貼られ、イエス・キリストから民衆の心が離れていくのは必死です。

 このような意地の悪い質問に対して、キリストは正面からは問題を取り上げずに、むしろ、彼らの態度の矛盾点を指摘なさいます。

 イエス・キリストはローマの貨幣であるデナリオン銀貨を持ってこさせ、そこに記された肖像が誰のものであるのかと問われます。そこにはローマ皇帝の肖像が刻まれていました。

 そもそも、「いかなる像をも刻んではならない」ことを命じたモーセの十戒の第2戒を厳密に重んじていたユダヤ人にとっては、貨幣に人の肖像を刻むことはもってのほかでした。まして、異教の神の子である皇帝の像を刻んだものを所持するとは、ユダヤ人らしからぬ生き方です。

 一方で、皇帝に税金を納めるのは真の神に対する忠誠を裏切ることだと主張しておきながら、他方で、そのような貨幣を自分の懐に所持しているとすれば、自己矛盾していることになってしまいます。ローマ皇帝への納税が神への裏切りになるのだとすれば、同じように、ローマの貨幣を所持していることも神への裏切りにはなりはしないかと、彼らの矛盾点を指摘なさいます。むしろ、そのような貨幣は皇帝のもとへ返すべきなのです。

 イエス・キリストのこの答えは、とても機知に富んだ答えです。彼らの思う壺にはまることなく、逆に彼らの欺瞞さを暴いたのです。

 イエス・キリストはさらに進んで、「神のものは神に返しなさい」と付け加えます。ローマ皇帝の像が刻まれた貨幣をローマ皇帝に返すのであれば、神の像が刻まれたものは神に返すのは当然です。

 では、神の像が刻まれたものとは何でしょうか。それは神がご自分のかたちに似せてお造りになった人間自身に他なりません。皇帝への納税の問題をあげつらう前に、まず、自分自身が神に対して自分自身を献げているかどうか、そのことをイエス・キリストは問い掛けていらっしゃるのです。一見、彼らがした質問は神への忠誠を問い掛けるような質問ですが、しかし、その質問をする彼ら自身が神に対して本当に忠実な生き方をしているのかどうか、そのことが問われています。

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