聖書を開こう 2019年2月28日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  産みの苦しみの始まり(マルコ13:1-8)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今でもとても印象に残っていることの一つに、自分の父親が亡くなる前の年の年頭に、父がお正月に集まった息子や孫達に年頭の挨拶のスピーチをしたことです。何を思って語りだしたのか分かりませんが、取り留めのない話になってしまいました。その中で、世の終わりが来ると言うことを身にしみて感じたのか、私にとってはいつも威厳のある父が、その日は妙に気弱なことを語りだしました。丁度20世紀も終わりに近づいてきたことも手伝って、色々なことに自由が利かなくなってきた自分の身のことを不安に感じていたのかもしれません。

 わたしはそんな父の話を聞きながら、人間と言うのは、いつかは世の終わりのことを思い始めるものなのだなぁ、と考えていました。

 ただ、世の終わりのことがあまりにも不安の材料になってしまうのも、また逆に、まったく無関心になってしまうのも、人間らしく生きていくためには、妨げになるのではないかとぼんやりと思い巡らせていました。

 さて、きょう取り上げる聖書の個所には、イエス様がお語りになった終末について、世の終わりについての教えが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 13章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」

 きょうから取り上げるマルコによる福音書の13章は、キリストの小さな黙示録、「小黙示録」として知られている有名な個所です。ここには、世の終わりにかかわるキリストの教えがまとめて記されています。

 そもそも、イエス・キリストがこのような教えをお語りになるきっかけは、弟子たちの発言にありました。エルサレムの都に聳え立つ神殿の石を目の当たりにした弟子の一人が、思わずこう叫びました。

 「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」

 いかにも、ガリラヤの田舎から出てきた弟子たちには驚き入ったといわんばかりの発言です。

 神殿の建物としての素晴らしさについては、イエスの時代から数十年下った頃、ヨセフスというユダヤ人の歴史家がその歴史書の中で記しています。このヨセフスという人はもともとはユダヤ戦争に参加して、ローマとの激しい戦いを経験するのですが、後にその立場を改めて、自分たちの戦いがいかに愚かなものであったかを立証するために、ユダヤ民族の歴史を書いた人です。

 その本の中に、まるで雪山のように白く輝く神殿の姿が描かれ、その石のあるものは長さが20メートル、高さが2メートル、幅が3メートル近くにも及ぶ巨大なものがあったと記されています。そんな巨大な石を見た弟子たちがどれほど驚き入ったかは、簡単に想像がつきます。

 しかし、嵐がきても地震が来てもびくともしないような、こんな大きな石で造られた建物が、壊滅的なほどに崩されてしまうとキリストは警告なさいます。他の建物ならばいざ知らず、よりによって、イスラエル民族の希望でもあるエルサレムの神殿が、そんな状態になってしまうと聞けば、弟子たちも黙って聞き流すわけには行きません。

 あとで、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねます。

 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」

 この問いに答えるかのようになされた教えが、きょうの聖書の個所です。

 いつ起こるのか、どんなしるしが伴うのか…これは弟子たちにとっても、わたしたちにとっても興味深い問題です。「いつ」と断定できれば、そこへ向かって充分な準備もできるでしょう。それとない前兆でもあれば、事前に時を察知して、すこしでも身構えることが出来ます。

 しかし、イエス・キリストはわたしたちの興味や関心に正面から答えようとはされません。

 にせメシアが出現すること、戦争の騒ぎや噂を耳にすること、そういうことがおこれば、世の終わりのしるしと思え、とでもおっしゃるのかと思えば、そうではありません。

 「慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」とおっしゃいます。そんなことばかりに気をとられ、落ち着きのない生活になってしまうとすれば、それこそ大きな問題です。

 キリスト教会の歴史の中で、世の終わりが近いことを中心課題に取り上げた運動が、波のように繰り返し押し寄せて来ました。いつも万物の終わりと新しい世界の出現を意識して生きることはとても大切なことです。しかし、そうした運動は、この世で生きることの意味を薄めてしまい、真面目に働いたり学んだりする意識を低下させてしまうという重大な欠陥がありました。「まだ、世の終わりではない」と思う意識、どんな時にも落ち着いて信仰生活を送る姿勢が問われているような気がします。

 さらにまた、イエス・キリストはおっしゃいます。

 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」

 「これらは産みの苦しみの始まりである」と考える歴史の見方は、どれほど希望に満ちたものの捉え方でしょうか。国が国に敵対するのは恐ろしいことです。地震や飢饉が起これば、すっかり不安な気持ちになってしまいます。痛みが死への序曲であれば、希望などひとかけらもありません。

 しかし、イエス・キリストはおっしゃいます。

 「これらは産みの苦しみの始まりである」

 産みの苦しみは新しいものが生まれると言う希望が伴うものです。イエス・キリストは何よりも世の終わりの出来事を、希望への始まりとしてお示しになっていらっしゃると言うことを覚えましょう。恐怖や不安からではなく、希望をもって世の終わりについて考えることができること、これこそがキリスト教信仰です。

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