聖書を開こう 2019年4月11日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  すべての人よ、目を覚ませ(マルコ13:32-37)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 毎日安心して過ごせるというのは、とても大切なことのように思います。何かに怯えて、ビクビクしながら過ごす毎日では、とても居たたまれない気持ちです。

 さて、世の終わりのことに関する聖書の教えを終末論と呼んでいますが、終末についての教えを極端に強調し始めると、余計に不安が増大するという傾向があるように思います。それは時として悲愴感漂う終末論になってしまうこともあります。

 しかし、イエス・キリストが教えてくださった世の終わりについての教えは、けっしてそのような不安を駆り立てるだけの終末論ではありません。

 きょうもイエス・キリストが教えてくださった終末についての教えに耳を傾けましょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 13章32節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 世の終わりの日がいつやってくるのか、その日、その時を正確に知りたいと思うのは、一見、もっともな願いのような気がします。そのもっともな願いに答えようと、色々な人たちが時代のしるしを解釈して来ました。

 しかし、イエス・キリストはそうした企てに対して、はっきりとおっしゃっています。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」

 神の子であるイエス・キリストさえも知らないというのはちょっと驚きです。しかし、その事実をしっかりと受け止めなければなりません、隠された知識を、人間があれこれと詮索したところで、そもそも意味のないことを謙虚に受けとめなければなりません。

 確かにイエス・キリストはこうもおっしゃいました。

 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」

 しかし、世の終わりが近づきつつあることを察知することと、その日、その時が厳密にいつなのかを知ることとは区別しなければなりません。このことを混同してしまうところに人間の思い込みから生まれる終末論の弱さがあるのです。

 そもそも、イエス・キリストが再臨される日時を正確に知ってどうしようと言うのでしょうか。その日までに何とか生活を取り繕おうとするのでしょうか。少なくとも、自分が何か悪いことをしている現場で、再臨の主イエス・キリストと出会わないようにするためでしょうか。

 そうした思いは、どれもこれも浅はかな思いです。再臨のその日にいい子にしていれば、それで神様の目がごまかせるとでも考えているのでしょうか。

 あるいは、その日その時がいつであるかが分かれば、災難を逃れて助かるとでも考えているのでしょうか。それもまた、大きな誤解です。

 終末の日を逃れることは誰にも出来ないことです。再臨の主イエス・キリストに出会わないようにどこかに隠れていることなど誰にも出来ません。

 ですから、たとえ、その日その時を知っているからといって、何か特別なメリットがあるかと言えば何もないはずです。もし、何かのメリットがあると考えているとすれば、その人の考えている終末論は、とても小さな終末論です。

 では、その日、その時が知らされていないということに、どんな意味があるのでしょうか。

 それはいつも目を覚まして、時代を吟味し、神の前でふさわしく生きる思いを新たにさせるという、大きな意味があります。知らないからこそ、いつ来てもよいように、備えていることができるのです。

 ただ問題は、どう備えるかと言うことです。そのことについて、イエス・キリストは譬えをもって教えてくださいました。

 それは丁度、留守の間に仕事を任された僕たちに似ているというのです。この僕たちに期待されていることは、委ねられた仕事を責任をもって果たすことです。目を覚ましていなさいとは、そういうことです。

 もちろん、門番は文字通り目を覚まして居なければなりませんが、他の仕事を委ねられた者たちは、夜になれば寝ることもあったでしょう。夜中も起きていなかった僕は悪い僕だというのではありません。

 そうではなく、主人がいつ帰ってきたとしても、委ねられた仕事を責任を持って果たしているかどうかが問題です。きょうは帰ってこないだろうと、安心しきって仕事を放棄してしまう生き方ではいけないのです。

 いつも目を覚ましているとは、眠たい目をこすりながら文字通りに目を覚ましていることではありません。また、帰って来るご主人様を遠くから見つけて、慌てて取り繕うために目を覚ましていることでもありません。

 そうではなく、いつも、与えられた仕事を責任をもって忠実に果たしていることなのです。

 人にはそれぞれ能力が与えられ、それぞれに役割が与えられています。その才能を発見し、それぞれの才能を活かすことが、再臨の主イエス・キリストを待つものにふさわしい生き方のなのです。

 終末の時を目を覚まして待つとは、自分に与えられた日常の生き方を放棄して、何か特別なことをするように求められているのではありません。きょう一日をいかによりよく生きるか、その積み重ねです。

 最後に、イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」

 目を覚ましていなさい、という勧めは、これを聞いた弟子たちだけへの言葉ではありませんでした。それは、その弟子たちに続くすべてのクリスチャンへの勧めの言葉でもあります。そして、さらにそれは、文字通りのすべての人への呼びかけでもあるのです。

コントローラ


自動再生されない方はこちらから再生(mp3形式)
Copyright (C) 2019 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.