聖書を開こう 2019年4月18日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  人間の計略と神のご計画(マルコ14:1-2)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教というのは、考えても見れば、とても不思議な宗教です。というのも、ローマ帝国に反逆した者として訴えられ、処刑された人物を、救い主として信じ、宣べ伝えているからです。普通の感覚の人なら、そのような宗教はとても怪しげとしか感じられません。現代風に言えば、事件として取り上げられるような騒動を起こした新興宗教が、はたして普通の感覚の人にとって受け入れられるかどうかと言うことです。

 しかし、キリスト教はそのような、誰の目にも不利と思われる生い立ちを持っていながら、わずか30年足らずのうちに、爆発的な広がりを見せていくようになりました。

 このことは、やはり不思議であると同時に、イエス・キリストが十字架で処刑されたただの犯罪人の一人ではなかったということを物語っています。ここでキリストの十字架の意味について、今一度、しっかりと学ぶ必要を覚えます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章1節〜2節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、過越祭と除酵祭の2日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 きょう取り上げた個所は、大変短い言葉ですが、マルコによる福音書にとってはとても重要な転換点を告げる言葉です。

 そもそも、マルコによる福音書が書かれたのは、イエス・キリストの生涯全体を伝えるためではありません。少なくとも、マルコによる福音書が扱っているのは、イエス・キリストの生涯のうちの、ほんの終わりの数年間です。特にマルコ福音書だけを読む人にとっては、イエス・キリストが洗礼を受けられてから十字架にかかるまでの期間は、わずか1年ほどの短いながさであるような印象を受けます。そういう意味では、この福音書はただのキリスト伝ではありません。

 この福音書はある意味で、一つのクライマックスを目指して書かれた書物と言ってもいいほどです。そのクライマックスとはキリストの十字架と復活の出来事です。すべての話が、そこへ向かって進んできたと言っても言い過ぎではありません。

 ある学者たちが言っているように、キリストの受難の物語こそがもともとの話の中核であり、その核となる受難の物語に、長い前書きが書き足されていったものが、現在の福音書と表現しても良いのかもしれません。

 いずれにしても、きょう取り上げる個所は、もう後には戻れない、決定的な転換を告げる言葉が記されます。

 ところで、祭司長や律法学者たちが、イエス・キリストの活動を快く思っていなかったことは、今までにも何度も記されて来ました。それはイエス・キリストの活動の初期の頃からあったとマルコによる福音書は記しています。

 すでに、3章6節にはこう記されています。

 「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」

 もうすでに、ずっと初期の頃からイエス・キリストを殺そうとする計画が、ユダヤの指導的立場の人たちのうちには芽生えていました。

 マルコによる福音書は、この人間的な策略、政治的な陰謀の流れを福音書のあちこちに描いています。

 エルサレムの神殿から商売人たちを追い出したキリストの行いを見た指導者たちが取った行動を、マルコによる福音書の11章18節は、こう記しています。

 「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」

 ここにもイエス・キリストを殺害しようとする指導者たちの動きが現れています。

 そうした流れが実って、きょうの個所の発言となっています。その流れを頭の片隅に置いておく必要があります。キリストが十字架の上で処刑されたのは、けっして突発的な事件でもなければ、偶発的な事故でもありません。ユダヤ人の指導者たちの間には、一度ならずその思いがあり、そうなるようにと機会を狙っていました。少なくともマルコによる福音書は十字架の出来事の、一方の側面をそのように描いています。

 「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」

 この発言は、祭りが終わってから、ゆっくりイエスを逮捕して、秘密裏に処刑して葬り去ろうと言うものではありません。先へ伸ばそうとしているのではなく、もう後数日で祭りの期間に入ってしまうので、それまでには決着をつけておきたいと願う、あせりの思いが見え隠れしています。もう祭りまで2日間しかないという状況の中で、きょう決断するか、明日決断するかと言った、緊迫した焦りの気持ちが現れています。指導者たちは、もう後には戻れない、先にも延ばせない、そういうギリギリの状況と判断したのです。

 しかも、祭りの間を避けたのは、祭りの神聖さが汚されるとか、祭りの尊厳さがたもたれないとか、そういった宗教的・倫理的な理由ではありませんでした。むしろ、政治的な判断で、騒ぎの拡大を避けるために、イエス・キリストの逮捕と処刑を急いでいたのです。

 ところで、今見てきたような流れと言うものは、確かにマルコによる福音書の中に示された、キリストの逮捕と処刑に至るまでの一つの動きでした。それはどちらかと言えば、人間の側から見た事件の動きです。

 しかし、マルコによる福音書はその人間の策略と並行して、いえ、人間の策略を飲み込んでしまうような大きな流れがあることも、今まで何度も記して来ました。

 イエス・キリストは、ご自分のメシアとしての使命について語るとき、いつも、ご自分の苦難についても語って来ました。

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている」と何度となくお語りになりました。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とさえ、前もってお語りになっています。

 マルコによる福音書14章から始まる、いわゆる「キリストの受難物語」を理解する鍵は、まさにこの点にあります。一見人間の策略のように見える動きの中に、神の秘められたご計画を読み取ることが大切です。この神の不思議なご計画を読み取った者だけが、十字架にかかったイエスを救い主キリストとして受け入れることができるようにされるのです。これは、人間の思いをはるかに超えた出来事です。

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