聖書を開こう 2019年6月20日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  裁かれているのは誰か(マルコ14:53-65)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書の教えの中に、裁判にかかわる掟がいくつか見受けられます。例えばモーセの十戒の中には「隣人に関して偽証してはならない」と教えられています。あるいは申命記の19章15節では「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」と教えられています。

 そういう意味では、旧約聖書の民は、他の民にまさって昔から裁判の公平さについて訓練されてきた人たちです。しかし、現実はどうかというと、例えばアモスは神の民の指導者を非難してこう伝えます。

 「お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り 町の門で貧しい者の訴えを退けている」(アモス5:12)

 裁判の不公平さという点では、イエス・キリストを訴えた裁判ほど公平さを欠いたものはありませんでした。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章53節〜65節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、3日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。
 「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」
 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

 結論が先にあるということほど、恐ろしいものはありません。イエスを訴え出る人々は最初から結論を持っていた人たちでした。すでに、14章1節にあるようにユダヤ最高法院は「なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えて」いました。その計画を正当化するために、イエス・キリストを裁く裁判はすべてが辻褄合わせに費やされたといっても言い過ぎではありません。

 ユダヤ最高法院が考えついた計画は実に巧みなものでした。もちろん、その当時のユダヤ最高法院には死刑の判決を下して実行する権限がなかったのですから、ローマの手助けがなければ、合法的にイエスを処刑することは出来ませんでした。そこで、彼らが思いついたのは、イエスを政治的なメシアに仕立て上げて、ローマの官憲に訴え出る口実を見つけ出すことでした。もちろん、それだけでは民衆の支持を取り付けることは出来ません。そこで、ローマ向けの口実と民衆向けの口実とを巧みに使い分けて裁判を進めようとします。

 さて、彼らが証言を集めていったい何を立証しようとしたのでしょうか。「イエスにとって不利な証言」とあるだけで、その内容が記録されていませんから、立証のポイントがはっきりしません。ただ、記録が残っている証言は「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、3日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」というものでした。神殿を冒涜し、神をないがしろにする冒涜者というレッテルをイエス・キリストに貼りつけたかったのでしょうか。もちろん、冒涜罪というだけではローマの裁判に訴え出る口実にはなりません。ただ、イエス・キリストを支持する民衆に対して、イエスは神を冒涜する者であるというイメージを植え付けるには十分であったでしょう。

 もっともそれすら証言が食い違っているために、成功したとはいえません。

 そこで、大祭司が立ち上がりイエスに直接尋問します。

 「お前はほむべき方の子、メシアなのか」

 これに対してイエス・キリストがお答えになった言葉は「そうです」という肯定的なものでした。自分を神の子と証言し、自分を神と同列においたこのイエス・キリストの発言は、大祭司やユダヤ最高法院の議員たちにとっては、正に最高の証拠だったに違いありません。彼ら自身がイエス・キリストの口から出た冒涜の言葉を聞いたからです。

 ついでに指摘すると、マルコによる福音書だけが、大祭司の質問に対してはっきりと肯定的に答えているイエス・キリストの姿を描いています。マタイ福音書もルカ福音書も、イエス・キリストの答えは肯定とも否定とも取れるあいまいな言い方です。つまり、イエス・キリストは単に大祭司の言葉を鸚鵡返しにして「あなたがそう言っている」と答えただけです。

 それに対して、マルコ福音書は「エゴー・エイミ」と答えるキリストの言葉を記します。その意味は「わたしはそうだ」ということですが、しかし、「エゴー・エイミ」という言葉は、かつて主なる神がモーセにご自分の名前を「わたしはあるというものだ」(出3:14)と教えた時に使われた言葉です。

 マルコ福音書が意図的に「エゴー・エイミ」という言葉を使っているのだとすれば、イエスこそ神であるとご自分で証言されるイエス・キリストの姿を描いたことになります。

 しかし、またその言葉こそが、ユダヤ人の指導者たちにとってはお一人しかいない神を冒涜した言葉と受け取れたのです。

 しかも、イエスの答えはご自分がメシアであることをも肯定する言葉でした。ご自分がメシアであるということは、ローマ皇帝のほかに王がいることを主張している政治犯だとして、ローマに訴え出る口実にもなります。それこそ、ユダヤ最高法院の最初からの意図を実現する願ってもないイエスの言葉でした。

 しかし、この審問で罪を問われているのは、実は最高法院の人々なのです。神がお遣わしになった神の子、メシアを拒絶して裁こうとしているのですから、これよりも大きな罪はありません。しかし、それは過去のユダヤ人の罪だけなのでは決してありません。それは神がお遣わしになったキリストを拒むわたしたちの罪でもあるのです。

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