聖書を開こう 2020年2月27日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の子として生かされている今(1ヨハネ3:1-3)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストが弟子たちに、祈るときにはこう祈りなさいと教えてくださった祈りがあります。「主の祈り」と呼ばれている祈りがそれです。ラテン語ではその祈りのことを、祈りの最初の二つの言葉を取って「パタ・ノスター」(Pater noster)と呼んでいます。パタ・ノスターとは「我らの父よ」という意味です。

 イエス・キリストが教えてくださった祈りの特徴は、神を親しみを込めて「父」と呼ぶところにあります。実際、イエス・キリストご自身が神を「アッバ、父よ」と呼んでいらっしゃいました(マルコ14:36)。「アッバ」とはアラム語で幼児が父親を親しみを込めて呼ぶときに使う言葉だと言われています。

 また、パウロはガラテヤの信徒への手紙4章6節で、「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」と書いています。キリストを信じる者は、みな神を父と呼ぶことができる神の子とされたのだ、という動かしがたい恵みを語っています。

 きょうの個所でも、神の子イエス・キリストを信じる者が、神の子とされている恵みが語られています。それと同時に、この神の子としての生き方もそこには問われています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 3章1節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

 きょうの個所は、神の愛がどれほど確かなものであるのか、そのことから書き始められています。それは神自らが、キリストを信じる者たちを「神の子」と呼んでくださっていることの中に現れている、とヨハネの手紙の著者は記しています。罪人である者たちを、キリストのゆえにご自身の子供として受け入れてくださっているのですから、これほど確かで大きな愛はありません。

 ヨハネはそのことに心を留め、考えるようにと注意を促しています。旧約聖書の時代も、イエス・キリストの時代も、救いはいつも神の恵みが先行しています。どれほど大きな恵みを神からいただいているか、その先行する恵みに心を留めること、そのことが神の民としての生き方を形作っていくからです。

 キリストを通して与えられてた恵み、それは、神の子とされる恵みです。それは、当然、神を父としていただくことができることと対をなしています。厳密にいえば、神の子と呼ばれるに値するのは、神の御子イエス・キリストお一人だけです。しかし、御子を信じる者たちを、神は憐み深くも、ご自分の子らとしてくださいました。ちょうど養子を迎えるように、ご自分の子としてくださったのです。ヨハネは、それがただの呼び方にすぎないのではなく、実際に神の子であることを強調しています。

 もちろん、イエス・キリストを信じる者が神の子であるということを否定する人たちもいることは否めません。ヨハネの生きた時代もそうであったでしょう。

 確かに、外観ということだけを言えば、目に見えて何かが急に変わるわけではありません。そうであればこそ、キリストを信じる者たちを神の子と呼ぶことに異議を唱える人たちがいたのでしょう。

 それに対して、ヨハネは、父なる神を知らないから、それを認める事ができないのだと反論しています。それと同時に、今ある姿には、変わりがないとしても、将来の終着点がどうであるのかについての確信が述べられています。それは、御子に似たものとなるということです。もちろん、それは外見ということではないでしょう。目に見えない霊性が、御子のそれと似たものとなるという意味です。

 さて、ヨハネはなぜ神の恵みを先に書き記したのでしょうか。つまり、なぜ、神の子と呼ばれるほどに神から愛され、事実神の子とされているという恵みの現実を先に指摘したのでしょうか。そして、それに続いて、キリストの再臨の日に、信じる者がどのようにされるのかという希望を書き示したのでしょうか。

 それは、まさに、3節以下で展開される、神の子としての生き方を論じるためです。

 ヨハネは一方で、キリストを信じてクリスチャンとなったとしても、なお弱さのゆえに罪を犯す可能性があることを否定はしません。すでに、2章1節で次のように述べているとおりです。

 「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」

 しかし、罪を犯す可能性があるということと、罪を犯してもよい、ということとは全く違った事柄です。

 むしろ、神の子とされた者には、今までとは違う側面が芽生えてきていることも指摘します。

 「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」

 つまり、神の子とされ、御子イエス・キリストの姿と同じようになることに望みをかけている人たちは、皆、御子が清いように、自分自身を清める、というのです。

 では、どうして神の子とされた者たちは、自分の身を清めることが可能なのでしょうか。それは神の子としての性質から考えて、そうだということができます。

 「御子が清いように」と述べているとおり、まことの神の子であるイエス・キリストが清いのであれば、その性質を受けつぐ者が自らを清く保つというのは、原理的に当然の成り行きです。むしろ、そうであればこそ、キリストを信じる者たちは神の子なのです。

 けれども、そればかりではありません。もう少し先を読み進めると、神が与えてくださる「霊」について述べられています。ヨハネの手紙の中には「聖霊」という言葉そのものは出てきませんが、神の「霊」についての言及はたくさん出てきます。それらは、聖書の他の個所で「聖霊」と呼ばれるお方とほとんど違いがありません。

 4章13節で次のように記されています。

 「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」

 神の子としての性質は、神が与えてくださる神の霊の働きと切り離して考えることはできません。聖霊の働きを通して、確実に神の子に似たものとされていくのです。またそうなるようにと導かれていくのです。

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