聖書を開こう 2020年5月7日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  大胆な確信(1ヨハネ5:13-15)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 福音に生きるとはどういうことなのか、そのことをいつも考え巡らせています。イエス・キリストがもたらした救いの良い知らせは、私たちを裁きへの恐れから解放し、神の御前に大胆に生きることができるようにしてくださるはずです。

 しかし、信仰生活を送るうちに、裁きへの恐れが頭を擡げ、いつか神から見捨てられるのではないかと不安になり、祈ってもその祈りは聞き入れられないのではないかと疑いを持つようになってしまうことがあります。

 もちろん、その思いのすべてが間違っているとは言いません。しかし、その思いにとらわれ過ぎて、信仰から離れていくなら、それはとても残念なことです。あるいは、信仰に留まろうとして、背負いきれないほどの重荷を自分に課していくとしたら、それは福音的な生き方とは大きく異なってしまいます。

今学んでいるヨハネの手紙には「福音」という言葉こそ出てきませんが、この手紙が語る神の愛に生きることこそ福音的な生き方そのものです。きょう取り上げる個所にも、福音に生きることの素晴らしさがちりばめられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 5章13節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。

 前にも指摘しましたが、この手紙には「愛」という言葉が多く用いられる反面、それと比較して「信じる」とか「信仰」という言葉はわずかしか登場しません。けれども、この手紙の5章に関して言えば、「信じる」という言葉がたくさん出てきます。その場合、信仰の内容は、神の子であるイエス・キリストと深く結びついています。5章5節で言われている、世に打ち勝つ者は、イエスが神の子であると信じる者でした。

 きょうの個所でも、「神の子の名を信じているあなたがた」という表現が出てきます。この手紙の受け取り手は、すでにイエスが神の子であると信じ、神の子の名を信じている人たちです。

 ヨハネが神の子イエス・キリストを信じる者たちに手紙を書き送っているのは、きょうの個所によると、「永遠の命を得ていることを悟らせるため」でした。

 ヨハネが手紙を送る目的について書いているのは、すでに、2回ありました。1章4節と2章1節で、それぞれ、「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」「これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるため」と記されていました。

 つまりヨハネはこの手紙を通して、読者が喜びに満ち溢れること、罪ある生き方から解放されること、そして、それに加えて、今日の個所では、永遠の命を得ていると悟ることを願っています。それらは、イエスは神の子キリストであるという信仰がもたらす実りの約束です。

 イエスが神の子キリストであると信じる信仰に生きるとは、決してその人に背負いきれないような重荷を負わすことではありません。特にきょうの個所では、信仰によってすでに永遠の命を得ていることに気がつくことを願っています。

 永遠の命というのは、しばしば将来のことと結びつけて考えられています。地上での生涯を終えた後、終わりの日の復活によって、初めて永遠の命を手にすることができる、そう思われがちです。

 確かに「永遠の命」という言葉が初めて聖書に登場するダニエル書12章2節でも、永遠の命は将来手にすることができる約束のものでした。

 しかし、ヨハネは、神の子イエス・キリストを信じることで、将来のものを今手にしているのだ、と読者たちに悟らせようとしています。

 先ほど言及したダニエル書12章2節以下にはこう記されていました。

 「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。 ある者は永遠の生命に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。」

 ここで言われている終わりの日のよみがえりには、二重の意味がありました。一方は永遠の命をいただいて、星のように輝く栄光のうちに入れられるということ。しかし、すべての人がそのようなよみがえりにあずかるのではなく、ある人たちは永久に続く恥と憎悪の的となるようにとよみがえるのです。

 そのような恐ろしさを伴う復活の日を、誰が確信をもって迎えることができるでしょうか。その日が来るまで、誰もが不安と恐れを抱きながら、日々を過ごすことになるでしょう。

 しかし、ヨハネにとっては、神の子イエス・キリストを信じる者は、すでに永遠の命に生かされているというのです。イエス・キリストが罪を償うために、すべてを成し遂げてくださったからです。この福音に生きるということは、裁きへの恐れから私たちを解き放つことに他なりません。

 かつてユダヤ人たちは「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができますか」とイエス・キリストに問いました。「何をしたら」ではなく、神の子イエス・キリストを信じることだけが、この世にあって永遠の命の恵みにあずかる秘訣なのです。

 ヨハネはさらに進んで、神の子イエス・キリストを信じる福音的な生き方がもたらす、さらなる喜びに触れます。

 「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」

 もちろん、ヨハネがここで言いたいことは、私たちの気ままで自分勝手な願いが、何でも実現するということではありません。神の御心に適うことだけが、聞き入れられるということです。

 そうだとするなら、結局は何を願っても神の御心しか実現しないのだから、神に祈ったり願ったりする意味がないと思ってしまうかもしれません。

 しかし、ヨハネはそういう考え方をしません。小さな子供が安心して自分の願いをお父さんに打ち明けるように、信頼感が神との間にあります。安心して願うことができるのは、自分の願いが何でもかなえられるからではなく、神の御心に適った良いことだけが実現すると分かっているからです。

 自分の思った通りにではなく、自分の思いを超え、神の御心がなるからこそ、安心して祈れるのです。

 福音に生きる喜びとは、そういう神との信頼関係から出てくる喜びです。

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