聖書を開こう 2020年6月4日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストと救いの計画(エフェソ1:7-12)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教というのは、その名の通り、キリストと深く関わりのある宗教です。その場合、キリストとは誰かと問われれば、ナザレのイエスこそが神の子キリストであると告白する宗教です。キリスト教の信者は、救いの全体がこのキリストに深く関わっていると信じています。

 きょうこれから取り上げる箇所には、神の子キリストと救いが、どのように結びついているのかが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 1章7節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 先週取り上げた個所は、父なる神への賛美で始まっていました。きょう取り上げた個所も、神への一連の賛美の流れの中に置かれている個所です。

 先週取り上げた個所で、パウロは、神の救いが単なる行き当たりばったりの思い付きから出たものではないことを語りました。それは、天地創造の前からあらかじめ定められた計画でした。それは、人の救いが運命や宿命によって定められているということでは決してありません。パウロが天地創造の前から定められていた救いについて語るのは、救いが人間の行いによって左右されるものではなく、神の愛に基づく、まったくの神の恵みであることを強調するためでした。

 そして、パウロはこの救いについて語るとき、この救いが御子キリストと深いかかわりがあることを繰り返し示してきました。パウロは選びについて語るとき、「キリストにおいて」その選びがなされたことを語り、信じる者が神の子として迎えられることを語るとき、「キリストを通して」神の子とされる恵みを語りました。父なる神は、そのように御子イエス・キリストを通して救いの恵みをお与えくださいました。

 今日取り上げた個所では、さらにわたしたちの救いと神の子イエス・キリストとの関係を深く描いています。

 すでに4節でパウロは、選びの目的が、わたしが聖なる者、汚れのない者となるためであることを語りました。そのことが実現するためには、わたしたちの罪の問題が解決される必要があります。

 そのことに関して、今日取り上げた個所で、御子イエス・キリストを通して与えらた二つの恵みについてパウロは言及しています。それは、御子の血による贖いともろもろの罪の赦しについてです。

 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」

 ここで使われている「贖い」という言葉は、身代金を支払って買い戻すこと。また比ゆ的な意味で、罪から解放することを意味しています。キリストを信じる者たちが聖なるものとなるように、キリストはご自身の血をもって罪の束縛から私たちを解放してくださいました。

 そればかりではありません。もろもろの罪の赦しをも与えてくださいました。償いきれない罪の負債を神はキリストにあって帳消しにしてくださったのです。古い罪の自分からから解放されて、新しい人生を歩むことができるようにと、神はキリストにあって罪の赦しと解放をわたしたちにあたえてくださいました。

 しかも、それは、ただただ神の御心のままに恵みによってそうしてくださったというのです。

 さらに、このような救いの計画が、人間の知恵から出たものではないことをパウロは語ります。パウロはその救いの計画を「秘められた計画」と呼んでいますが、今まさに秘められていた福音の奥義がキリストにあって明かされています。

 イエス・キリストご自身、旧約聖書の中に永遠の命があると思って研究しているユダヤ人に対して、「聖書はわたしについて証をするものだ」とおっしゃっています(ヨハネ5:39)。イエス・キリストを抜きにして、旧約聖書に描かれた神の救いの歴史を理解することはできません。キリストとともに救いの計画は完成へと至り、このキリストを知るとき、旧約聖書に描かれていることの意味を悟ることができるのです。

 パウロはキリストにあって完成される救いの業を表現するときに、「時が満ちるにおよんで」と表現します。それは時計の針が進んで、定刻になったというニュアンスではありません。時が熟してまさにふさわしい機会が到来したというニュアンスです。コップに水が少しずつたまって、あふれ出るように、まさにこの時に、満を持して救いの恵みがキリストにあって豊かにあふれ出したのです。

 アブラハムの時代に救いの恵みがなかったわけではありません。モーセの時代に救いの恵みがなかったのでもありません。どの時代にも神の救いの恵みは注がれていました。けれども、イエス・キリストの到来まで、まだ完成の時は満ちているとは言えませんでした。キリストにあって初めて頂点を迎えることができました。いえ、救いの歴史はキリストへと向かっていたのです。

 パウロがここで描く救いは、単に個人の救いの問題ではありません。一民族の救いということでもありません。天と地を含む全宇宙的な救いです。

 アダムとエバの堕落によって罪が世界を支配し、あらゆるものを神から引き離そうとする力が働く世界にあって、キリストのもとにすべてが修復され、神の救いの世界が実現しようとしています。そのような壮大な救いの業の完成を描く一方で、再び、パウロの目は神の国の相続者としての人間に注がれます。

 天地万物の創造を記した創世記の記事は、人間の創造へと世界が整えられていく様子が描かれました。パウロが描く救いの完成も、全宇宙を含んだ壮大なものですが、けっして人間不在の世界ではありません。完成された世界の相続者として、救いにあずかる者の姿が描かれています。

 キリストを通してそのように救いの恵みが完成へと向かっているのです。

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