聖書を開こう 2020年7月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  教会の働き(エフェソ3:10-13)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 一般的な意味で「教会」といえば、たいていの人は教会の「建物」を連想すると思います。しかもその建物には十字架がついているイメージです。もっとも、「毎週日曜日に教会へ行っています」という文章になると、教会という「建物」に毎週日曜日に通っていると理解する人はいないと思います。その場合の「教会へ行く」という意味は、教会の中で行われている宗教的な行為に与るという意味に理解されます。「教会」という言葉に変えて「毎週日曜日に礼拝に行く」といっても意味はほとんど変わりありません。

 あるいは、「誰それさんは○○教会の会員さんらしい」というときの「教会」という言葉には、「建物」やその中で行われる「礼拝」というよりは、「組織」としての教会がイメージされると思います。

 わたしが思いつくかぎり、この世の中で「教会」という言葉が使われるときにイメージされることは、だいたいその三つぐらいだと思います。

 けれども聖書の中に出てくる「教会」という言葉は、もっと豊かで深みのある内容です。特に今学んでいるエフェソの信徒への手紙の中では、さまざまなイメージで教会の姿が描かれています。

 たとえば、1章22節と23節で、教会はキリストを頭とした体であると表現されています。また、2章11節以下に描かれる教会の姿は、民族を超えた一致と平和の姿で描かれ、それは一つの家族のようでもあり、神が住まう一つの建物のようにも描かれています。あるいは、5章21節以下では、教会はまるでキリストの花嫁のように描かれています。

 今日取り上げようとしている箇所にも、教会について、壮大なイメージが描かれています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 3章10節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

 きょう取り上げた個所は、ギリシア語の文章からいうと、文の途中から始まっていて、おかしな区切のように感じるかもしれません。文章全体は8節から始まっていて、パウロに与えられた務めが、どういう結果をもたらしたのか、ということを述べている節です。そして、前にも話しました通り、3章の1節で言いかけたことが、異邦人読者にとって、誤解を与えてしまうのではないかと懸念して、2節から12節までを通して、自分の働きが、牢に投獄されることも含めて、神の深いご計画と恵みの中にあることを語っています。

 そして、きょう取り上げた個所の最後の言葉は、投獄されているパウロの様子を知っても落胆しないようにと励ましの言葉で結ばれています。

 以上が、きょう取り上げた個所の大雑把な内容です。

 そのパウロが自分に与えられた務めについて述べる中で、その務めがもたらす結果について、興味あることが記されています。パウロはこう記しています。

 「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのです」(エフェソ3:10)

 第一に興味を惹かれるのは、「神の知恵が教会によって知らされるようになった」という言い方です。「教会によって」あるいは「教会を通して」という言い方自体は、聖書には普通にありそうで、出てこない表現です。不思議に思うかもしれませんが、パウロも他の使徒たちも、「教会によって」とか「教会を通して」という表現を一度も使いません。つまり「神の知恵が教会によって知らされる」といういい方は、とても珍しいということです。

 では、その場合、「教会を通して」とは、どういうことを言いたかったのでしょうか。おそらく、すぐに頭に思い浮かぶことは、「教会の宣教の働きを通して」という意味だと思います。

 主イエス・キリストは弟子たちを遣わして、すべての国民を弟子とするようにとお命じになりました(マタイ28:19)。その宣教の働きが、今度は弟子となった人々の集まりである教会を通して、さらに推し進められた、という理解です。

 しかし、手紙の文脈を無視すればそういう理解も可能かもしれませんが、この手紙の文脈の中では、もう少し違う意味のようにとることができます。

 直前の文脈でパウロが述べていることによれば、神の救いの計画は、異邦人もユダヤ人と変わりなく神の約束にあずかることができるということでした。そういう福音に仕える者としてパウロは召され、異邦人に福音を伝え、すべての人に救いの計画がどのように実現するかについて解き明かした、ということでした。

 ここでパウロがイメージしている教会というのは、2章13節以下に描かれている通り、ユダヤ人も異邦人も、キリストの十字架によって一つとされた教会です。一つの国民、一つの家族、一つの建物のような、バラバラではなく、その中に、もはや敵意が存在しない平和のある共同体としてイメージされています。

 パウロが仕えた福音によって生み出された教会は、まさに神の知恵がそういう形で表れている教会です。教会の姿を見れば、神の知恵を知ることができるような存在です。そういう意味で、パウロは「いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、知らされるようになった」といったのでしょう。

 この個所を読むときに、現実の地上の教会が、今なお神の知恵を示しているか、神の知恵を曇らせてはいないか、と自らの姿を顧みる機会が与えられます。

 もう一つこの個所で興味を惹かれるのは、教会を通して神の知恵が誰に知らされるのかという点です。

 パウロはここで、「天上の支配や権威に知らされるようになった」と述べています。これはわたしたちの思いを遥かに超えた言葉です。教会を通して神の知恵を人々が知るようになる、というのならイメージしやすいかもしれません。「天上の」となると、わたしたち人間が理解したり、想像したりすることを超えた世界の話です。そもそも、この手紙の中にしばしば登場する「支配や権威」という言葉は、天上の世界を描いた特殊な言葉で、わたしたちにはあまりなじみのない使われ方です(エフェソ1:21, 2:2, 6:12)。その一つ一つの意味についてここで触れることはできませんが、ここで描かれている世界が壮大なイメージであることはすぐに想像がつくと思います。神の救いの御業は、ただ地上の世界のことだけではありません。人間を超えた全宇宙的な救いの中に、教会がその役割を担っています。この大きな恵みを覚えたいと思います。

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