聖書を開こう 2021年1月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  ボアズが重んじたこと(ルツ4:9-12)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 その人が何を大切にしているか、ということは、その人の生き方に大きな影響を及ぼします。それが自覚的なものであれ、無意識のものであれ、その影響から逃れることは難しいように思います。

 昔から地位やお金は、人生の目的そのものになってしまうほど、人が大切に思って来たことの一つでした。もちろん、地位やお金よりも、人から称賛されることを大切に思って生きる人も昔から大勢います。あるいは、大勢の人からの称賛よりも家族の笑顔が何よりも大切と思って生きている人もいます。また、世間体が大事と思う人がいるかと思えば、周りの人の価値観よりも自分が信じていることを大事にしたいと思う人もいます。人それぞれ大切にしているもの、大事にしているものは異なりますが、それがその人の生き方を左右しているという点では共通しています。

 『ルツ記』に登場するボアズの生き方にも、ボアズが何を大切にしているかが、大きな影響を及ぼしているように思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ルツ記 4章9節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」門のところにいたすべての民と長老たちは言った。「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」

 前回は、ナオミとルツに対して最も責任のある親族との交渉の話を学びました。交渉を担当したのは、ほかならぬボアズでした。ボアズはひょんなことからモアブから来た女性ルツと出会いました。ひょんなこととは言いましたが、その出会いの背後には、目に見えない神の導きがありました。ただ、人間的には偶然としか思えない二人の出会いでした。

 自分の畑で落穂を拾うルツと、そのしゅうとめのナオミが、自分の親族であることをボアズが知るのは、そう時間がかかりませんでした。ルツからの求愛に促されて、ボアズは自分よりも親族として責任ある人物と話を付ける必要がありました。その交渉が前回学んだ内容でした。

 新共同訳聖書の翻訳には「贖う」という訳語は登場しませんが、原文のヘブライ語聖書では、この交渉場面の中心に「贖う」という言葉が頻繁に出ています。親族としての責任とは、具体的には贖うことが責任の中心であったということです。贖う責任を放棄した一方の親族に対して、贖う責任を果たそうと決意したボアズの姿が対照的に描かれていました。

 前回取り上げた個所には、認証の手続きとして、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡す行為について、さらっと書かれていました。しかし、その手続きの詳細を記した『申命記』25章5節以下には、その行為は単なる認証手続きの行為ではなく、不名誉なしぐさであることをうかがわせる記述があります。履物を脱いで渡すというよりは、履物を脱がされたうえに、その顔に唾までかけられて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と非難されるほどでした。そして、親族としての責任を果たさなかった者には、「靴を脱がされた者の家」という不名誉なレッテルが貼られました。

 『ルツ記』にはそうした相手の不名誉を大きく取り上げるような書き方はなされていません。あるいはルツの時代には、履物を渡すことに含まれた意味はほとんど忘れ去られ、形式だけが残っていたのかもしれません。いずれにしても、『ルツ記』には、相手に対する非難よりも、ボアズに対する祝福の方に目が注がれています。

 前置きが長くなってしまいましたが、先ほどお読みした個所には、ボアズが親族としての責任を果たす決意を表明した言葉と、それに応えてボアズを祝福する長老たちの言葉が記されています。

 「どうぞあなたがその人をお引き取りください」と言って、相手の親族が履物を脱いで渡したそのとき、ボアズはすかさず自分の責任を表明し、証人である長老たちに言いました。

 「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」

 ボアズがルツを自分の妻としたのは、ルツに対する愛があったことはいうまでもありません。それに加えて、亡くなった親族の嗣業の土地や一族の名を重んじる気持ちがボアズにはありました。

 嗣業の土地や一族の名を重んじるという価値観は現代の私たちにはあまりピンとこないかもしれません。しかし、このことはイスラエルの人々にとっては大切な価値観でした。それは、自分たちの先祖であるアブラハムに神が約束してくださったことと深く関わっているからです。神はアブラハムの子孫が星の数のようになること、また、約束の土地を子孫たちに継がせることを約束してくださいました。そのことを通して、祝福が世界に波及し、神の救いの業が進展していく見取り図を神が示してくださったからです。

 要するに、嗣業の土地や一族の名を重んじるという価値観は、神の祝福や救いの約束と深い結びつきがあるということです。ボアズが取った行動は、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの十二部族に受け継がれてきた信仰の遺産を何よりも重んじた行動ということができます。

 世界全体から見れば、小さな田舎に過ぎないベツレヘムの住人の、小さな結婚の決意に過ぎないかもしれません。それが直ちに世界を変えることに結びつくことでもありません。しかし、小さな町の出来事でしたが、そこに暮らす人々にはちょっとした噂になるような大きな出来事だったことでしょう。そして、その時代を生きた人々には知ることもできないことでしたが、後にボアズとルツの子孫からダビデ王が生まれ、そこから何百年も経って救い主イエス・キリストが誕生しました。信仰の遺産を大切に守ったボアズの行動が、やがては世界を変えたといっても言い過ぎではありません。もちろん、ボアズはそんな名誉は期待もしていなかったことでしょう。

 ボアズの言葉に呼応して述べられる民と長老たちの祝福の言葉が記されています。

 「あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。」

 ヤコブの妻、ラケルとレアを通してイスラエルの十二部族が誕生しました。ルツをラケルとレアの二人のようにしてくださるように、という言葉は、ボアズには身に余る祝福であったばかりか、それは、いささか誇張的な表現にも聞こえたことでしょう。しかし、そののちの歴史を知っているわたちたちにとっては、これは決して誇張ではありませんでした。神がその祝福を現実のものとしてくださいました。神の約束を大切にした者だけが受け取ることができる祝福です。

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