聖書を開こう 2021年6月3日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  思慮深いエステルの計画(エステル5:1-8)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 子供のころ、将棋を覚えたてのわたしは、よく父親に相手をしてもらいました。勝気だったわたしは攻めることばかり考えて、いつも守りの甘いところを突かれて悔しい思いをしました。

 詰めの甘い計画はそれとよく似ています。万事が首尾よく進むことを暗黙の前提にしているために、ちょっとした予想外のことが起こるとすぐに頓挫してしまいます。

 今日取り上げようとしている個所には王妃エステルの周到な計画の進め方が記されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 エステル記 5章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから3日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。王は言った。「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」エステルは答えた。「もし王のお心に適いますなら、今日私は酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出ましください。」王は、「早速ハマンを来させなさい。エステルの望みどおりにしよう」と言い、王とハマンはエステルが準備した酒宴に赴いた。王はぶどう酒を飲みながらエステルに言った。「何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」「私の望み、私の願いはと申しますと」とエステルは言った。「もし王のお心に適いますなら、もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください。明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます。」

 前回の学びでは、エステルがモルデカイを通して、王宮の外で大変な事態が起こっていることを知らされた様子を取り上げました。自分の民族であるユダヤ人が絶滅されると聞いて、エステルは死を覚悟して王の前に立つ決意をします。

 そうは言っても、そのときエステルに何か具体的なよい考えがあったとは思えません。今すぐできることは、神の前に断食することだけでした。それは深い悲しみを表すと共に、神に祈る機会でもありました。とにかくこの窮状を神に訴え、祈りを通して神からの示しを待つよりほかありません。そういう意味でエステルの行動は、信仰を支えの杖としたものでした。

 断食をしたのはエステルだけではありませんでした。スサにいるユダヤ人にもそうすることを願いました。三日三晩の断食を通して、エステルの心に具体的な計画が浮かんできたのでしょう。エステルは王の前に向かいます。

 しかし、王から召しだされるのでなければ、王の前に出ることはペルシアの法で禁じられていました。この掟を破る者には死をもって制裁が加えられました。しかし、これには一つの例外がありました。王が手にした笏を差し伸べて、その者に触れるときには謁見することが許されました。

 王妃エステルの行動は、一見無謀のようにも思えます。謁見できるか死を科せられるかは、50パーセントの確率です。コインを投げて裏が出るか表が出るかと同じくらい、危うい行動です。エステルには信仰があったから、というのは確かにその通りです。この行動には、多くのユダヤ人たちの祈りの支えがありました。

 けれども、何も考えずに無謀な行動に出たのではありません。王妃の衣装を身にまとい、王の前に向かいます。かつてクセルクセス王のお妃選びの時に、候補者たちは思い思いその場にふさわしい服装や持ち物を持って王の前に向かいました。王妃に選ばれたエステルも、その時王にふさわしい身なりで王のもとに向かいました。以来、エステルには王妃として王にふさわしい服装のセンスが磨かれていったことでしょう。

 実は「王妃の衣装」と訳されているマルクースというヘブライ語には、「衣装」という意味はありません。この言葉は5章1節だけで3回登場します。「王妃の衣装」「王の」家(王宮)、「王の」座(王座)など訳し分けられていますが「王の」というのがもともとの意味です。ここでは、「身に着ける」という動詞から判断して、「王族の衣装を身に着けた」と訳されています。

 おそらくエステルの磨かれた感性で、王の品位と威厳にふさわしい服装を選んで向かったということでしょう。もちろんそこには、王の好みも反映されていたかもしれません。決して取るものもとりあえず、王の前に進み出たのではありません。服装一つとっても考え抜かれたものでした。

 王宮に向かって立つエステルを見て、クセルクセス王は満悦の面持ちで手にした金の笏を差し伸べます。「満悦の面持ちで」というのは大胆な意訳ですが、その場の雰囲気はまさにその通りであったに違いありません。

 それはエステルの周到な準備もそうでしたが、それよりも祈りに応えてくださる神の導きがそこにはあったからです。

 王にとっては、予想もしなかったエステルの登場に、不快感を示すどころか、王の意に適うものでした。大げさな言い方ですが、王は登場するエステルに「願いとあれば、国の半分なりとも与えよう」とさえ言います。

 しかし、エステルは慎重に答えます。決して心のうちに秘めた思いを明かしません。まずは自分が主催する酒宴に、ハマンを伴って来ていただきたいと願います。エステルの願いは王にとって小さな願いです。すぐにその願いを聞き入れて、ハマンと共に酒宴に向かいます。

 もちろん、クセルクセス王も機転のきかない愚鈍な王ではありません。エステルがこうして酒宴を催すからには、何か願いがあってのことと察します。再びエステルに向かって問います。

 「何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」

 ここまで王の信頼を得られれば、もう願いを打ち明けてもよさそうです。しかし、エステルはこの機会をあえて見送ります。再び酒宴を催すので、王とハマンにまた来てほしいと願います。今度は、その上で自分の願いを打ち明けることを約束します。

 これは、エステルが優柔不断のために、願いを言い出す勇気を失って、肝心の事を先延ばしにしていたのではないでしょう。王には期待を持たせ、またハマンにはすっかり油断させる、周到な計画です。

 もちろん、ここでエステルの知恵を称賛するつもりはありません。すべては神が見えない手をもって導いてくださったからにほかなりません。そのことを誰よりも知っていたのは、断食までして神に向き合ったエステル本人です。

 エステルの行動から学ぶことがあるとすれば、神への全幅の信頼と、その信頼を裏切らない行動こそ、見習うべき点です。しかし、それは決して向こう見ずな行動ではありませんでした。神への信頼のもとに、与えられた自分の賜物を精一杯使った行動でした。そのバランスこそ信仰者としてのエステルの見習うべき点です。

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