聖書を開こう 2021年8月26日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  選ばれた婦人とその子たちへ(2ヨハネ1-3)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうから新しい個所を取り上げたいと思います。今回取り上げるシリーズはヨハネが書いた小さな二つの手紙です。すでに、第一の手紙については2020年1月から19回にわたって学びました。興味のある方はホームページ「ふくいんのなみ」の過去放送データから探してみてください。

 さて、先ほど「ヨハネが書いた」と言いましたが、三つの手紙のどこにもヨハネ自身がこれらの手紙を書いたとは言われているわけではありません。ただヨハネによる福音書を含めて、伝統的に使徒ヨハネが記したと言われています。それが真実であるかは別にして、少なくとも同一人物がこれらの書物を記したか、あるいは同じ共同体に属する同じ神学的傾向をもった者たちが記したことは否めません。それくらい、これらの書物には共通した信仰が流れています。

 パウロが書いた手紙とは異なった趣きがありますが、キリスト教信仰を伝える重要な文書として、新約聖書の中に収められています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙二 1節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。

 きょうから取り上げるヨハネの第二の手紙は、新約聖書の中でもっとも短い手紙です。パピルス用紙1枚に収まる程度の長さです。パウロがフィレモンに宛てて書いた手紙も短い手紙ですが、それよりもさらに短い手紙です。

 しかし、当時の手紙の体裁はしっかりと取っています。差出人、宛先人、そして挨拶の言葉が体裁通りに冒頭に並んでいます。そういう意味では、ヨハネの第一の手紙は、手紙らしい体裁の始まり方をしていませんでした。

 ヨハネの第二の手紙は手紙らしい書き出しで始まります。けれども、パウロの手紙と比べると、それとは違った特徴があります。

 まず手紙の差出人を見てみましょう。パウロはたいていの手紙で、差出人である自分を名乗っています。パウロという名前に加えて、「キリストの僕」「使徒」などの称号が加えられます。しかし、この手紙は、差出人として個人名が名乗られていません。ただ「長老」とだけ記されています。

 「長老」と訳されているギリシア語の本来の意味は、「年寄り」や「老人」を意味する言葉です。ユダヤ人たちの間では、会衆の中で特別な役割を担った人を指す言葉として使われて来ました。そして、キリスト教会の中でも同じような役割を担う人々が立てられるようになりました。

 たとえば、使徒言行録の15章には初代の教会の人々が異邦人からキリスト教を信じるようになった者たちへの「割礼」を巡る問題で会議を開いた様子が記されています。そこに集まった人たちは、「使徒たちと長老たち」と言われています(15:6)。また、同じ使徒言行録の20章には、パウロがミレトスに着いたとき、エフェソから長老たちを呼び寄せた次第が記されています(使徒言行録20:17)。その長老たちのことをパウロは、教会の世話をさせるために神がお立てになった「群れの監督者」と呼んでいます(使徒言行録20:28)。

 ですから、差出人は自分を「老人」と呼んでいるわけではなく、教会の監督者としての「長老」と名乗っていることは間違いないでしょう。しかも、定冠詞がついていますから、受取人にとっては「ザ・長老」ともいうべき人物です。単に一つの会衆の長老というよりは、この手紙の受取人たちにとって、その地域に散在する家の教会の監督者というほどの重みがある人物であったことは間違いありません。

 しかし、キリスト教に関係のない人がこの手紙を拾って読んだとしたら、一人の老人が子供を持つ婦人に宛てて書いた手紙と勘違いしてもおかしくはありません。迫害が始まりつつあった時代に、あえて紛らわしい表現を使ったのかもしれません。

 この手紙の受取人についても、具体的な名前や居場所に結びつく情報は何も記されていません。「選ばれた婦人とその子たちへ」とだけ記されます。

 「選ばれた婦人」が誰を指すのかについては、様々な議論があります。「エクレクテー・キュリア」というのが原文の言葉ですが、これを婦人の名前と理解する人もいます。「選ばれた婦人」と訳すのか固有名詞のまま「エクレクテー・キュリア」とするのか、どちらにしてこの手紙の受取人は一人の女性であると考える点で共通しています。確かにヨハネの第三の手紙の受取人も「ガイオ」という個人名ですから、第二の手紙も個人に宛てたものと言えるかもしれません。

 しかし、それとは異なる理解もあります。「選ばれた婦人」とは文字通りひとりの女性を指すのではなく、教会がキリストの花嫁と理解されるのと同じように(エフェソ5:26以下)、ここでも教会を比ゆ的に表現していると考える立場です。そして「その子たち」とは、文字通りの「子ども」ではなく、そこに集まる信徒たちを指しているという解釈です。手紙の内容がきわめて教会的な事柄を扱っていることから考えて、教会に宛てて書かれた手紙と考えるのが良いでしょう。

 さて、手紙の受取人についてさらに言葉が続きます。

 「わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。」

 この手紙の差出人は、受取人を「真に愛している」と述べます。「真に」と訳されている言葉は、「真理において」あるいは「真理によって」という言葉です。そして、自分だけではなく「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。」と続きます。

 「真理」と「愛」という二つの言葉は、ヨハネによる福音書を含めて、ヨハネの書いた文書の中では重要な意味を持った言葉です。

 「愛」についていえば、ヨハネによる福音書もヨハネの第一の手紙も、キリストによって示された神の愛に倣って互いに愛し合ことが強調されています(ヨハネ13:34、1ヨハネ3:11)。この愛こそ、キリストのまことの弟子であることを示す特徴です。

 「真理」についていえば、次の節で「いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります」と言われています。真理そのものであるキリスト(ヨハネ14:6)から教えられた永遠に至る命の教えは、まことの教会を特徴づけるものです。

 ヨハネが手紙の冒頭で「愛」と「真理」にわざわざ触れているのは、「愛」から離れていく人々、「真理」からそれていく人々を意識してのことと思われます。まことの教会として、キリストの真理と愛とに留まることをいつも願っているこの長老の願いが如実に現れています。

 そのことは、挨拶の言葉にも現れています。

 「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」

 ここでも、「真理と愛」という言葉が目を引きます。しかも、「真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」というこの言い方は、パウロにはない言い方です。真理と愛が伴う教会こそ、まことの教会の姿です。

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