聖書を開こう 2021年9月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  ディオトレフェスとデメトリオ(3ヨハネ9-13)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 この世の中に争いが絶えないのと同じように、教会の中にも争いが起こってしまうというのはとても残念なことです。もっとも争いと一口で言っても、避けて通ってはいけない争いもあります。たとえばキリスト教の根幹にかかわる信仰について、異なる見解が出てきたときには、とことん論争しつくす必要があります。あるいは倫理にかかわる問題でも、真摯な議論を戦わせる必要があります。

 しかし、その争いが単なる派閥争いであったり、人間的な感情から出るものである時には、対処することがとても困難です。そもそもそういう争いが起こってしまうこと自体が残念なことです。

 さて、きょう取り上げる箇所には、そうした人間的な争いの痕跡を見ることができます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙三 9節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください。

 きょう取り上げたこの個所には、二人の人物の名前が取り上げられています。一人はディオトレフェス、もう一人はデメトリオです。実はこの二人に言及することは、この手紙を書く目的と深くかかわっています。この部分こそこの手紙を書いた動機とも言えます。

 手紙の文章というのは、しばしば、差出人と受取人の間で共通の認識があることが前提に書かれているために、そういう共通の認識部分については省略されていることが多いものです。したがって、後の時代の人間からすれば、ある程度推測して理解しなければならない部分がどうしてもあります。きょう取り上げた個所の冒頭部分がまさにそうです。

 「わたしは教会に少しばかり書き送りました。」

 いったいどの教会に何を書き送ったのか、これだけでは漠然としていて、これを読む今の私たちには何のことだかさっぱりわかりません。ただ、わかるのは、長老ヨハネが書き送ったのは、いくつもの教会に当てて書き送ったのではなく、ある特定の教会にあてた手紙のことを言っているのだということです。

 そして、その次にディオトレフェスの名前が上がっていることと、そのディオトレフェスが手紙の差出人とその仲間たちを受け入れない、という様子から、ディオトレフェスと長老ヨハネとの間に何某かの問題が起こっていることがうかがわれます。しかも、ディオトレフェスについて、彼のことを「指導者になりたがっているディオトレフェス」と呼んでいます。そこから推測すると、すでにその教会の中で、ある程度影響力のある人物であったことがうかがわれます。

 ディオトレフェスがした「わたしたちを受け入れない」という行為の具体的な内容は、続く10節にもう少し詳しく記されています。それによると、第一に、手紙を差し出した長老ヨハネを悪意に満ちた言葉でそしっているということです。もちろんこれはヨハネが書いていることですから、ディオトレフェスには正当な言い分があったかもしれません。しかし、少なくともヨハネにとっては、ディオトレフェスのしていることに、善意や愛が感じられないというのは正直な思いです。互いに愛し合うことというのは、ヨハネにとって大切な生き方でした。明らかにそれとは違う態度をディオトレフェスに感じたということです。

 ディオトレフェスがしたもう一つのことは、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちを邪魔したということです。これは前回学んだガイオのとった態度とは真逆のことです。ガイオは自分たちのところにやってくる巡回伝道者たちを受け入れ、彼らをもてなしました。

 ディオトレフェスが拒んでいるのは、偽兄弟たちや半キリスト的な教えを触れ回る人たちではありません。ヨハネ自身とその信仰を共有する仲間たちを退けているということです。

 では、ディオトレフェスとヨハネとの間に、何か教理的な理解の違いがあったということでしょうか。ヨハネはそのことについては何も触れてはいません。もし、あったとすれば、ヨハネはそのことを真っ先に指摘していたことでしょう。「指導者になりたがっている」という言葉が示しているように、ディオトレフェスがヨハネに対して悪意を抱いているのは、自分中心の教会を立てたいと思っているディオトレフェスに対して、ヨハネが大切にしている互いに愛し合うことの勧めや巡回伝道者を受け入れてもてなす勧めは、自分にとって邪魔と映ったからでしょう。

 それにしても、そのディオトレフェスのことをヨハネはなぜガイオに知らせたのでしょうか。もしこの問題がヨハネとディオトレフェスの間の問題であれば、個人的にその非をただせば済むことです。実際ヨハネはそうするつもりでいたようです。「そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います」と書いているとおりです。

 しかし、問題はもはや個人間の問題を超えて、教会の問題となっていたのでしょう。この問題を知らせなければ、ガイオにもその悪影響が及ぶと考えたのではないかと思われます。ヨハネがガイオにこの手紙を書いたのはまさにそのためです。

 ディオトレフェスのことがすでにガイオの耳に入っていたのか、あるいはこれから入るのかはわかりませんが、そのニュースがどんなふうに伝えられ、それがどんな影響を及ぼすのか、ヨハネとしては放置しておくことはできなかったはずです。模範的な愛の実践をなしているガイオであればこそ、ヨハネが心配をするのは無理もありません。

 続いて、デメトリオの名前が唐突に出てきます。ディオトレフェスが非難される人物の代表格であるとすれば、デメトリオは称賛されるべき人物であるかのように紹介されます。彼の人となりについては「あらゆる人と真理そのものの証しがある」と言われ、ヨハネ自身もまた証ししています。

 デメトリオはひょっとしたらディオトレフェスの教会で拒絶された巡回伝道者の一人であったのかもしれません。だから、ガイオのところでぜひ迎えてほしいと願っているのかもしれません。

 あるいは、この手紙をガイオのところに持ってきたのが、このデメトリオであったのかもしれません。そうであるとすると、デメトリオの評判について手紙に書いて置くことには十分うなずけるものがあります。

 きょうとりあげた箇所は、ある時代のある教会で起こった出来事ですが、それは現代の教会にも起こりうることです。そのときヨハネが重んじたことは、何よりもキリストの愛の模範に生きる教会でした。そこに根ざして教会を立て上げるときにこそ、教会が健全に成長することができるのです。

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