聖書を開こう 2021年10月7日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  奴隷としてではなく兄弟として(フィレモン8-16)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 世の中に自分一人だけが生きているのであれば、クリスチャンになっても、人間関係から来る葛藤や軋轢を経験することはありません。日本のように自分の周りが99パーセント、ノンクリスチャンの世界では、キリスト教信仰に立って生きようとすれば、どうしても周りに生きる人たちと価値観の違いが明らかになって、息苦しい思いになることがあります。ただ単に対立するのでもなく、かといって周りに流されるのでもなく、信仰に立ってしっかりと生きるということは、ほんとうに難しいことです。

 そうかといって、周りが皆クリスチャンであるような世界では、平穏な人間関係の中で信仰生活を送ることができるのかといえば、必ずしもそうではありません。一つには、クリスチャンといえども、人間的な弱さを引きずって生きています。誤解や思い違いから相手を傷つけてしまったり、逆に傷つけられてしまうこともあります。また、クリスチャンとしての自覚が強すぎるために、自分と少しでも聖書の読み方が違うという理由で、排他的になってしまうということもあります。

 結局どんな世界に生きるとしても、信仰をもって真面目に生きようとすれば、どこかで問題に直面し、それに向き合って行かなければなりません。そのことを通して、信仰に生きるということが、深みをまして行くのだと思います。

 今取り上げているフィレモンへの手紙は、逃亡した一人の奴隷の処遇をめぐってしたためられています。しかも、その奴隷の主人はクリスチャン、逃げ出した奴隷は、逃亡先でクリスチャンとなった事例です。現代のように憲法が基本的人権を保証している時代とは違う世界で、まだ始まったばかりのキリスト教信仰を抱きながら、この問題に向き合うことは、信仰的にも社会的にもチャレンジなことであったと思います。

 その仲介を務めるパウロの手紙から学びを続けたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィレモンへの手紙 8節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。

 今日取り上げた個所から、この手紙の本題に入ります。奴隷の主人であり、家の教会の提供者でもあるフィレモンがなすべきことについて、パウロとしては、はっきりとした結論をもっていました。使徒の権威をもったパウロとして、それを示して命令することもできたはずです。

 しかし、この手紙の差出人として自分を名乗るときもそうでしたが、使徒としての権威に訴えて、何かをさせようとする思いはパウロにはありません。そういう威圧感からフィレモンが行動することをパウロはよしとしません。パウロは使徒としてではなく、年老いたひとりの囚人の願いとして、フィレモンに心開いてこの願い聞いてほしいと願っています。

 パウロは具体的な事柄を話す前に、何よりもフィレモンに愛の原則に立って、これから話す事柄を受け止めてほしいと願っています。クリスチャンとして、自発的に愛をもって行動することをパウロは期待しています。

 愛に根差した行動とは、主イエス・キリストが教えられたように、もっとも大切な律法の要約です。神を愛すること、隣人を愛すること、これこそが律法の目指すところであり、そのように生きることが求められています。

 頭ではどう生きるべきかを知っていることと、それを実践することとの間には、しばしば大きな隔たりがあります。クリスチャンとして生きようとする誰もがそのことを経験していると思います。フィレモンもまたパウロから問題の指摘を受けて、真摯に事柄に向き合わなければなりません。その時に大切なのは、愛に根差して問題を受け止め、愛に根差して問題に取り組むことです。

 その具体的な問題とは、「オネシモ」についてのことでした。オネシモの名前を聞いて、フィレモンには思い当たることがありました。しかし、オネシモといっても同じ名前の人物は他にもいるはずです。パウロは「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と言っていますから、フィレモンの心に浮かんだオネシモとは別人であるかもしれません。

 ちなみに「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」という表現は、比ゆ的な表現で、この場合、「弟子にした」あるいはもっと具体的には「洗礼を授けた」ということです。

 しかし、その続きを読み進めると、そのオネシモは自分のところにいた、まさにあのオネシモのことであることが明らかになります。

 「以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」

 実はオネシモという名前は、皮肉にも「役に立つもの」という意味の名前です。たとえフィレモンのもとにいるときには、名前に反して役に立たない者であったとしても、今は文字通り役に立つオネシモであることをパウロは請け合います。

 もっともパウロのもとにいる間に、オネシモがどれほどの技量をあげて、仕事を良くこなすようになったのかは、パウロにはそれほど問題ではなかったと思われます。むしろ、パウロがいう「役立つ者」という評価は、信仰者となったオネシモの、信仰に基づく生き方から出る働きを評価してのことでしょう。不承不承何かをするような働き方ではなく、相手を愛する思いから他者に仕えるようになった姿勢を、パウロはオネシモの中に見出したのだと思われます。

 そのオネシモを元の主人であったフィレモンのもとへとパウロは送り返そうとします。これはフィレモンの信仰者としての善意を信頼していなければ、とてもできることではありません。そのような逃亡奴隷が主人のもとに送り返されれば、ひどい目に遭うことは、その当時のローマ社会では普通にありえたことだからです。しかし、だからと言って、事情を知ったからには、自分の手元にいつまでもとどめておくことはパウロにはできません。

 そこでパウロはフィレモンの自発的な心に訴えて、オネシモを単なる奴隷としてではなく、一人の人間として、また同じ主を信じる兄弟として受け入れるようにと願います。

 フィレモンの立場に立って考えるなら、それはその当時の社会の常識とは違う行動です。信仰に立って行動しようとするなら、その風当りをはねのける決断を迫られます。信仰に生きるとは、まさにそういうことなのです。しかし、それはフィレモン一人の戦いではありません。この手紙が宛てられているフィレモンの家の教会に属する人々の戦いでもありました。一人の逃亡奴隷を愛をもって受け入れること、そのことを通してキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを知るようになるのです。

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