聖書を開こう 2021年11月25日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  モーセに勝るキリスト(ヘブライ3:1-6)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書の中で最も偉大な人物といえば、真っ先にあげられるのはモーセであると思います。なぜなら、律法はモーセを通して与えられたばかりか、モーセのように神と直接語り合うことができる人は、モーセのほかにいなかったからです。さらには、神とその民との間を仲介し、契約の仲保者を務めたという点でも、モーセは他のどの人物よりも旧約聖書の中で際立った存在です。

 そういう事実を知っているユダヤ人たちにとっては、モーセとキリストはどちらが優れているのか、という議論が起こっても不思議ではありません。『ヘブライ人への手紙』はこの問題にも正面から取り組んでいます。

 旧約聖書になじみがない人たちにとっては、あまり関心がない話かもしれません。しかし、新約聖書を一通り読んで、これから旧約聖書を学ぼうとする人にとっては、この『ヘブライ人への手紙』は旧新両約聖書にはどういうつながりがあるのかを示す良いガイドラインであると思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 3章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

 今までこの手紙の中で議論されてきた事柄の一つは、天使とキリストとの関係でした。『ヘブライ人ヘの手紙』の著者は、天使に対するキリストの圧倒的な優位性を旧約聖書を引用しながら論証してきました。

 その中で、イエス・キリストは神の御子であると同時に、人の子でもある点にこの手紙の著者は着目しました。罪と堕落のために栄光を受けられなくなっていた人間が、人の子であるこのお方を通して、再び真の人間としての栄誉に回復されたのだ、ということを詩編8編から解き明かしました。このような救いの御業は、天使たちのためになされたのではなく、まさに神の民になされた御業で、キリストご自身、救われた者たちを兄弟と呼ぶことに少しの恥もためらいも感じておられません。

 このように救いのためにわたしたちのところにまで人となって下ってこられたお方、憐れみ深い忠実な大祭司であるイエス・キリストがここにおられるのだ、ということが、前回の学びの中心点でした。

 天使に対してキリストが優位に立っていることが明らかになった今、わたしたち信仰者が何よりも心を向けるべきお方は、イエス・キリストであることは明白です。それで、きょう取り上げた個所の冒頭の言葉は、こんな言葉で始まっています。

 「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」

 ここで、キリストを信じ神の民とされた者たちを「天の召しにあずかっている者」「聖なる兄弟」と呼びかけています。この手紙の今までの流れから明らかなとおり、彼らが神からの召しにあずかっているのも、また、聖なるものとされているのも、キリストの救いの御業の故であることを思い起こさせる呼びかけの言葉が使われています。

 そのうえで、御使いではなく、イエス・キリストに思いを向けるようにと勧められます。

 ただし、この手紙の著者はここで「イエス・キリスト」という言葉をあえて使いません。代わりに「使者であり、大祭司であるイエス」という言葉を選んでいます。

 「大祭司」という言葉が使われるのは、その直前の個所で、イエスのことを「憐れみ深い、忠実な大祭司」と呼んでいますから、流れとしては自然でです。

 しかし、「使者」という言葉を使ってキリストを紹介しているのには、戸惑いを感じるかもしれません。というのは、ここで「使者」と訳されている「アポストロス」という言葉は、新約聖書の中で「使徒」を表す言葉として使われているからです。そのうえ、この手紙の中では、後にも先にも、この言葉は一回しか使われていないからです。なぜ、そのような言葉をあえて使ったのか、疑問が残ります。

 「アポストロス」という言葉の本来の意味は「遣わされた者」という意味ですから、それを「使徒」と訳しても「使者」と訳しても、意味に大差があるわけではありません。神から遣わされたお方、という意味では、イエス・キリストほどこの呼び名にふさわしいお方はおりません。

 この流れの中で、この手紙の著者は「モーセ」の名前に触れます。大祭司であるイエス・キリストと比較するのであれば、モーセは大祭司ではありませんでしたから、アロンの名前の方がふさわしいように思われます。

 しかし、モーセは大祭司ではありませんでしたが、数々の場面で神と民との間を仲介し、執り成してきたという事実を考えると、モーセの名前が出てくるのは決して不自然ではありません。また、「神から遣わされた者」という意味でも、モーセはエジプトからイスラエルの民を導き出すためにまさに神から遣わされた人物です。エジプトでの奴隷状態から民を解放したモーセと、罪の奴隷状態から人々を解放したイエス・キリストが並べて置かれるのも決して不自然なことではありません。

 さらに「忠実さ」という言葉をキーワードとして考えると、旧約聖書の中でモーセほど忠実な人物はそう多くありません。

 では、キリストとモーセは同列なのでしょうか。そうではないことをこの手紙の読者であるユダヤ人出身のクリスチャンに丁寧に解き明かす必要があります。

 そこで、この手紙の著者は三つの点を指摘しながら、モーセに対してキリストの卓越性を論証します。

 たしかに忠実さという点で比べるならば、どちらも神に対して遜色のない忠実さを示しました。しかし、この手紙の著者にとって、モーセとキリストは明らかに違う存在でした。

 第一にモーセについては「神の家全体の中で」という限定がついています。モーセの忠実さは、遣わされた神の家の中での忠実さです。それに対して、キリストが示した忠実さは、この神の家の上に及ぶ忠実さです。

 第二に、家と家を建てる者との比較で考えると、モーセは明らかにイスラエルの家を建てた者ではありません。それに対して、御子イエス・キリストについては、この手紙の1章2節で、神は御子によって世界を創造された、と述べられるとおりです。そういう意味で、キリストの栄光はモーセのそれとは比較になりません。

 第三に、モーセは仕える僕として、神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として、神の家を治めるお方です。僕と相続者である子との違いは決定的です。僕はどんなに頑張っても家を相続して、その家を治めることはできません。

 そうであればこそ、今、大切なことは、使者であり、大祭司であるイエスのことを第一に心にとめて考えることです。しかも、わたしたちキリストを信じ、キリストにより頼む者こそ、キリストが治めてくださる真の神の家、神の家族なのです。そう確信して歩み続けることが、今の時代のキリスト者にも求められているのです。

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